ペンデュラスの街、その中心にそびえる壮麗な屋敷の前で、土煙を巻き上げながら一人の男が息を切らせて駆け込んできた。屋敷は領主ペンデュラス家の居城であり、その威厳ある外観は貴族の誇りを静かに物語っている。だが今、兵士である男によって、その静寂は破られた。汗と泥にまみれた彼は躊躇なく扉を乱暴に叩き開け、屋敷の中へと急いで飛び込む。
その音に反応し、中年の貴族ベイルが慌てて駆け寄る。豪奢な衣装に身を包んだ彼は、まさに貴族そのものだが、小太りな体型がどこか威厳を損なっていた。
「ベイル様! 緊急事態です!」
「何事か? そんなに焦って……」
兵士の声は震え、切迫感に満ちている。ベイルが言葉を続ける前に、兵士が叫んだ。
「悪鬼の軍勢が……この街に攻めてきました!」
「何!?」
ベイルの顔から血の気が引く。冷や汗が額を伝い、驚愕が全身を支配した。悪鬼の襲撃など想像だにしていなかった。このままでは街が滅びる――一刻の猶予もない。彼は即座に決断を下す。
「すぐに住民に伝えろ! 指定の場所へ避難するんだ、急げ!」
「はっ! ギルドにも連絡します!」
「使用人全員、安全な場所へ! 今すぐだ!」
「「「はっ!」」」
兵士は敬礼し、踵を返して駆け出す。ベイルは使用人たちにも叫びながら避難指示を行い、彼らもまた急いで避難を開始する。
(まさか私の街が悪鬼に狙われるとは……だが、誰一人として死なせはしない。この街を守るため、私は全てを賭ける!)
ベイルは心の中で誓いを立てながら、次々と使用人を安全な場所へ避難させていく。住民を救うため、そしてこの街と共に生きる覚悟を胸に秘めて。
※
一方、とある薄暗い部屋では、アリウスが苛立ちを抑えきれずに拳を握り潰さんばかりに締めていた。ハインたちが捕らわれたという報告を受け、彼の計画が狂ったのだ。
「失敗したか……あの役立たずどもが!」
零夜への憎しみと、失敗した部下への失望が交錯するが、彼はすぐに冷静さを取り戻す。恐らく何か考えでもあるだろう。
「まあいい。奴隷なら他にもいる。また奴隷商から仕入れれば済む話だ……」
エヴァとルイザを諦め、新たな策を練ろうとしたその瞬間、扉が勢いよく開いた。そこに立っていたのはベイルだった。顔に汗が滴り、息も絶え絶え。明らかに異常事態だ。
「父上! どうされたのです!?」
「大変だ、アリウス! 悪鬼がこの街に攻めてきた! 今、住民を逃がしている!」
「悪鬼が!? 外はどうなっている……?」
アリウスは窓に駆け寄り、外を見下ろす。そこには地獄絵図が広がっていた。家々が燃え、煙が空を覆う。住民たちはモンスターに追い立てられ、悲鳴を上げながら逃げ惑っている。阿鼻叫喚とはこのことだ。アリウスは一瞬硬直した後、鋭い眼光で決意を固めた。
「まさか動き出すとは……父上、ここは私が止めに行きます!」
「アリウス!? お前、一人でモンスターに立ち向かう気か!? いくら何でも無謀すぎるぞ!」
ベイルの制止も虚しく、アリウスは即座に動き出す。街がピンチになっている以上は自ら動くしか無く、これ以上ベイルには迷惑を掛けさせないと思っているのだ。
しかし単独で向かう事については、流石に無謀過ぎるとしか言えないだろう。
「心配しないでください。私は死にません。では!」
「おい! お前が死ねばペンデュラスの跡継ぎはどうなる!」
アリウスは軽く笑みを浮かべ、父の叫びを無視して屋敷を飛び出した。その背後で、彼の唇に残酷な笑みが一瞬浮かんだことを、誰も気づかなかった。
※
屋敷の外は修羅場と化していた。モンスターたちが住民を追い回し、街は混乱の渦に飲み込まれている。アリウスは静かにその光景を見据え、真剣な表情を崩さないまま考え始める。
(なるほど、奴らは本気で征服を始めたか。動くなら……今がその時だ)
彼は頷き、素早く動き出す。屋敷の前に立ち、深く息を吸い込んだその瞬間――
「そこまでだ!」
「「「!?」」」
雷鳴のような叫びが響き渡る。住民とモンスターたちが一斉に動きを止め、アリウスに視線を集中させた。
住民たちは彼を見て希望の光を見出し、安堵の表情を浮かべる。だが、モンスターたちは違った。冷や汗を流し、武器を下ろすと、恐る恐る彼の前に跪いた。
「すみません、ゲルガー様!我々はただ略奪を……」
「まったく! 何度も言ったはずだ、略奪や侵略はするなと! なぜ守れない!」
「「「ははーっ!」」」
モンスターたちが土下座する中、住民たちは呆然と立ち尽くす。まさかモンスターたちがアリウスの命令を聞くのは予想外であるが、それ以上に彼がゲルガーだという真実に信じられずにいた。
「アリウス様が……ゲルガー?」
「ゲルガーって、あの悪鬼のFブロック隊長じゃないか……?」
「まさか、そんなはずが……」
ざわめきが広がる中、心配で様子を見に来たベイルが駆けつける。彼もまた目の前の光景に言葉を失い、アリウスに問いかけた。
「アリウス、これは一体……? モンスターが急に攻撃を止めたのはなぜだ?」
アリウスはゆっくりと振り返り、真剣な眼差しでベイルを見つめる。その心の中は自ら覚悟を決めたと同時に、何かを伝えようとしているのだろう。それがたとえどんな結果になろうとも、覚悟は既に決めているのだ。
「父上。この戦いは終わりです。そして……私はアリウスではありません」
「何⁉」
アリウスの宣言にベイルが驚いた直後、その言葉と同時に彼の姿が変貌する。貴族の若者だったアリウスは消え、そこに現れたのは黒い狼の獣人だった。赤と黒の装束を身に纏っていて、雰囲気からすれば邪悪なオーラが発せられているのは確実だ。
そう。アリウスは仮の姿であり、その正体は悪鬼Fブロック隊長ゲルガーだった。住民たちとベイルは、信じられない思いで息を呑んでしまう。まさかアリウスがゲルガーだなんて信じたくないだろう。
「貴様、何者だ……⁉」
ベイルが叫ぶと同時に、ゲルガーは鋭いクローを彼に向けて振り下ろす。一瞬にしてベイルを薙ぎ払い、彼の身体から盛大に血が噴き出てしまう。そのままベイルは呻き声を上げて倒れてしまった。
「が……!」
光の粒となって消えゆくベイル。住民たちは悲鳴を上げ、恐怖に震える。モンスターたちは歓声を上げ、勝利を確信した。ゲルガーが本格的に復活した以上、この戦いは我らの勝利だと感じているだろう。
「まだだ! これで終わりじゃない!」
ゲルガーが指を鳴らすと、ペンデュラスの屋敷が轟音と共に変形し、巨大な要塞へと姿を変えた。地面が揺れ、街の周囲に鉄の城壁が隆起する。住民たちは逃げ場を失い、抱き合って怯えるしかなかった。
「安心しろ。危害は加えない。ただし……街を出るには通行許可が必要だ」
ゲルガーは怯えている住民たちに冷たく告げ、モンスターたちに視線を移す。彼らは一斉に敬礼し、隊長であるゲルガーに対して忠誠を誓う。
「いいか! 今日からこの街はペンデュラスではなく、悪鬼Fブロック街だ! ここから他の街を侵略し、悪鬼の発展のために突き進む。新時代の幕開けだ!」
「「「うおおおおおお‼」」」
モンスターたちの咆哮が響き渡る中、住民たちは震え、絶望に沈む。ペンデュラスはベイルの死と共に、完全に悪の支配下に落ちてしまったのだった。
※
その頃、城壁の外では、一人のドワーフ女性がペンデュラスの街から必死に逃げていた。ツインテールの髪にゴーグル、黄緑色の肩紐つなぎ服を身にまとい、ドワーフとしては異例の155cmの長身である。
「ハァ……ハァ……早く逃げないと……」
全速力で走りながら、彼女の手首のバングルが微かに光る。そこには「地」と刻まれた茶色い珠が、不気味に輝いていた。