少年は喉が渇いていた。
生活は貧しく、ボロボロの服と灰色のスカーフを身につけて街を歩く。少年の足はあまり良いとは言えない血色で、端的に表せば瑞々しさが無い。がさついた皮膚にやや暗い肌色。
実際問題、歩き方にも支障が出ていた。
次の片足を出すときに足元が揺れる。そして通行人と肩がぶつかることもあるくらいだった。
「はぁ、はぁ……」
おぼつかない足取りの中、汗が滲む。陽射しは強くなる一方で、目元のくまが目立つ。
少年は幸福に飢えていた。
──どうも近くの森に、願いを叶えてくれる華の精がいるらしい。
あくまで噂だと、少年は思う。
確かにスラムの噂でも何度か耳にしたことはあった。しかしどうにも馬鹿馬鹿しい。
この近くにある森と言えばパープレア大樹海くらいで、光が限局される上に尖った草木が多く、常に危険が付きまとう。
だから絶対に鵜吞みにしないと、少年は強く念じる。
近くの川まで向かい水を飲む。それから手に持ったバケツに水を掬えるだけ掬い、家に持って帰った。
「リア! 熱は大丈夫か?」
「けほっ、けほっ! お兄ちゃんお帰り……」
「ノリアッ!!」
ぼんやりとした目に赤くのぼせた顔。額に手を当ててすぐに離すくらいの高熱だった。
身体から汗が出ておらず、高熱で温められた水分がさらに悪循環しているような状態だ。
急いでバケツの水に布切れを浸す。水分をしっかりと絞ったものをノリアの額に乗せた。すると一瞬、驚いた表情をするもすぐに楽な表情へと変わる。
「あ……冷たい。ありがとう、お兄ちゃん」
ノリアはそう言いながら、また目を閉じてしまった。
「……華の精が救ってくれるかもしれない」
少年はふと呟く。そして何を血迷ったのか、少年は近くの森を目指した。
川を挟んで向こう岸には木々が乱立し、そのさらに向こう側にパープレア大樹海が広がっている。
妹の命がかかっているのもそうだが、何より自身も危うい状態にある。だから心に余裕が無かったのかもしれない。
少年はノリアを背負って樹海へ向かう。
進む道は険しい。
背負うノリアの華奢な身体が傷つくのではないかと思わず慎重になる。時間に急かされているのもあり、少年は精神をすり減らしながら歩いた。
泥の足場を踏み抜いて、身体をいつでも冷やせるようにと水辺に沿って進む。
「熱い……もう、ダメだ」
必死になって歩いたせいなのか、熱が移ったのかはわからない。ただ一つ言えるのは、少年自身も歩くのが厳しい状態になりつつあるということだ。
妹を背負ったまま、ふらふらと森を彷徨う。しばらくして、前のめりに倒れ込んでしまった。
冷んやりとした地面の温度に身を任せて、意識は遠のいていく。
少年の意識が途切れる手前、聞き慣れない誰かの声が鼓膜を震わせた。
***
「ようやく目が覚めた? 二人とも」
見慣れない部屋に土色の壁──否、あれは土だ。
ならばここは土の下だろうかと、少年は思う。辺りを見回して、すうすうと寝息を立てるノリアの姿に安堵を浮かべた。
「助けてくれて、ありがとうございます。……ええと、貴女が華の精?」
「違うわよ。貴方たちはこの近くの川辺で倒れてたの。すごく熱も出ていたし、流石に焦ったわ」
「あ……」
もう既に熱が引いていることに気づく。何かの魔法なのか、それとも魔法薬を分けてくれたのかまでは分からない。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「そうね。礼を伝えるなら、外にいる華の精にして頂戴」
「外?」
「あー、ごめんごめん。今すぐに開けるから」
黒髪の少女は土壁に手を
「【
土壁の一部がくり抜かれたように、地面に溶けていく。その壁一枚向こう側には、植物のようにわずかな太陽を浴びて伸びをする少女の姿があった。足元を見れば地面に逞しい根を張っている。
「あれはアルラウネ、魔族……?」
「彼女が正真正銘、華の精よ。シニカさんが貴方たちに薬を分けてくれたの」
ふふん、と自分事のように胸を張って少女は語った。
「そうだったのか……だったんですね」
「口調は別に構わないから、早く礼を伝えて来なさい」
「はい!」
それからすぐに少年は壁の外へ駆け出す。シニカは未だに気持ち良さそうな伸びをしているが、少年が来たことに気がつくとパチリと目を開ける。
「シニカさん。俺たちを助けてくれて……ありがとうございました!!」
「いえ、体調が回復したなら良かったです。体力のほうは戻ってますか? まだ街に帰ることは難しいですか?」
「ぁ……」
早く出て行って欲しいのだろうか。やや厳しい言い回しに少年は口を噤んでしまう。帰ったとしても貧しい生活が待っているだけだ。正直、戻っても変わらない。
「街に帰り、たくない」
少年の口から本音が漏れる。
「どうしてですか?」
シニカは問う。
「だって、あの街に帰ったとして何も変わらないんだ。それにノリアも元気にならない!」
「そうでしたか。それならここで生活することを許しましょう」
言葉が何もかも足りていないシニカの一言に、少年の目元は潤む。
「ほらほらシニカさん。もう少し丁寧に説明してあげなきゃダメじゃない。あの子泣いちゃってるから!」
部屋の中から顔を出したシーナは、ため息をついてから微笑む。するとシニカは少年へ謝罪する。
「ありがとうシーナ。言葉が足りなかったようですみません」
数秒後、シニカの双眸がじっと少年を向く。
「……コホン。今から私は貴方に質問をします」
「質問?」
「ええ。貴方が苦しむものについて教えては頂けませんか?」
シニカは「対価はいりませんので」と言葉を付け足す。すると少年は身の上を語り出した。その内容に心がきゅっと締められるような感覚。目尻に溜まった涙を指で拭うとシニカは口を開く。
「それなら私から提案です」
「提案……?」
「ここで共同生活をしてみませんか? ここは光のあまり届かない場所ですが、生きる術を身につけられますよ」
「生きる、術?」
シニカは目をじっと凝らして、少年を見つめていた。
少年には夢があった。
それは妹を学園に通わせたいという、かなり険しい道のり。その夢も、消えてしまうところだった。
──先程までは。
共に生活をするというシニカの提案に、少年は未来を語る。
「俺はここで生活したい。そしていつか妹を学園に入学させたい! 妹は俺よりもずっと頭が良くてすごいんだ」
「良き夢ですね」
シニカは視線を横へ移動させた。シーナは「私?」と自分を指差してジェスチャーするが、シニカはシーナを手招きする。
「ここにいるシーナはものすごく落ち着きがなくてね、突然私のところに転がり込んで来たんです」
それから一呼吸。シニカは更なる提案をした。
「シーナが助手その一で、君が助手その二。森の薬屋でも開いてみましょうか。幸いここには薬の原料がたくさんあります」
シニカの話によると、パープレア大樹海の植物の多くは毒であり──そして、薬にもなるそうだ。
「例えばそこら辺に生えてる茎が紫色の植物。根っこは強心剤です。健康な人に与えると死にます」
「「へ、へぇー!!」」
シーナと少年は驚きと、なんとも言えない固い表情だ。
「せっかくこれから共に生活するわけですし、お互いに自己紹介でもしてみましょうか。私は不殺の魔王こと、エフェドラ=シニカです。以後、お見知りおきを」
「シーナよ、よろしく。それで貴方の名前は?」
シーナの双眸に少年が映る。少年は変に
「俺の名前はマグといいます。まだ眠ってるけど、あれが妹のノリアです。よろしくお願いします」
少年──マグは短い白髪を風に揺らしながら、視線を妹へ移す。ノリアはまだ寝息を立てているが、どこか幸せそうな表情だ。今はすっかりと汗をかいて、体温も下がっている頃だろう。
「俺に、知恵を……授けてください」
マグは願う。くすんだ瞳の奥で、悲鳴にも似た叫びが聞こえた気がする。シニカは快諾すると、次にシーナへ視線を向けた。ちょんちょんとマグの隣の地面を指さしている。
座れ、ということだろうか。
「シーナ、貴女にも更なる知識を身につけてもらいますからね」
「わかったわ!」
その目に映るのは好奇心。青い瞳がよりいっそう輝く。その隣でマグが驚いているが、すぐにシニカへ顔を向ける。
「さて、この地に生えている植物たちの話をするとしましょうか」
シニカの前置きに、キラキラした笑顔が咲いた。
***
このパープレア大樹海にはとてつもなく高い木々と、ちょこんと座る低い木が存在する。
「まずひとつ、ここに紫色の蕾と白い花が特徴的な植物があります。この植物の葉は言ってしまえば精力剤です」
「「セッ……!?」」
「効能はそれだけでなくて、滋養強壮もあります。こっちのほうがメインですね」
「なんで先に変な用途を持って来た!?」
マグが鋭くツッコミを入れた。それに対して、シーナがため息をつきながら答える。目つきはやや、ジト目だ。
「これは日常茶飯事だからマグも慣れて頂戴。シニカさんはそんな私たちの反応を観察して楽しんでるだけだから。ほら見て、今もニヤついてるわ」
前を見れば腕を組み頬に手を当てて悪どい笑みを浮かべる魔王。シニカは笑い声ともに息を吐き出すと、説明を続けた。
「滋養強壮に関連して、あそこに成っている赤い木の実。あれを乾かすと滋養強壮薬の材料になります」
「へぇー、そうなのか。ここにある植物ってもしかして宝箱なのか?」
「まさしくその通り。国の王侯貴族からすれば喉から手が出るほど欲しい代物だと思いますね。長命になるとも言われていますから」
「「な……ッ!?」」
二人の想像をはるかに超えた貴重な植物が目の前にある。二人の手が思わず空に伸びてしまうが、シニカがそれを制する。手をパチパチと叩いて、視線を誘う。
「まさかそれをそのまま取って売ろうだなんて、考えないでくださいね」
シニカの眼光が鋭い。「あくまで生きる術を教えているのです」と、シニカは付け足した。その言葉に、マグとシーナはうんうんと頷く。
すると土でできた部屋の中から聞こえた物音にシニカは顔を緩める。
「あれ、お兄……ちゃん」
部屋の中から顔を覗かせたのは赤い瞳の似合う白髪の少女。華奢な身体を上手く支えて、ちらりとこちらを覗いていた。
「ノリアっ!! 目が覚めたのか! 心配したんだぞ……」
「うん。ありがとう……でも、ここは?」
周囲を見渡しただけで分かる異様な空気感。不気味な紫色の幹に新緑の葉。低木から背の高い木まで色々な植物が茂っていた。
優しい土の香りと、やや冷たい空気が肌が痛むほど刺激してくる。
「ノリア、落ち着いて聞いて欲しい。ここはパープレア大樹海の奥地だ。体調は大丈夫そうか?」
「もう大丈夫だけど……パープレア大樹海の奥地って、どういうこと?」
マグはどうしてこんな所まで自分を連れてきたのか。こんな危険な場所まで連れて来ないと自分は助からなかったのか。
今、ノリアの顔には恐怖と憤怒の色が浮かんでいた。真紅の瞳がマグを見つめる。
「どうして、どうしてこの森に入ったの? お兄ちゃん」
妹の言葉が深く突き刺さる。声色はマグのことが心配だから故の恐怖と憤怒だった。
マグはノリアを背負いながら危険が常につきまとう大樹海に入っただけでなく、マグはその奥地へと進んでいたのだからノリアの不安も大きい。
確かに考え無しに行動していた節があったとマグは思う。しかし、ノリアの言動に対して少なからず譲れない部分があった。
ノリアの傍まで駆け寄ってそっと手を握ると、マグは重い口を開ける。
「ノリア、俺は……」
「なんでお兄ちゃんは自分のことを考えないの!? 私は昔から病弱だからいつか野垂れ死ぬことは覚悟してる! もっと自分を気にしてよ。目に隈も出来てるし……もう、ボロボロじゃん!」
そう言ってマグの頬の傷を撫でる。ノリアの本音にマグは口を閉ざすほかなかった。
「ノリア」
「だから私もそれ、一緒にやる!!」
「これはノリアを学園に入れるために俺がやらないと」
ノリアはシニカの摘んでいる種を指差して、強い視線を向ける。
マグの思考は完全にストップしていた。今やるべき事はノリアのために稼がねばならない。そんなマグを差し置いて、嬉々として思いを語るノリア。
「体調もなんだか軽いし、出来ると思うの」
「──そっか」
何が出来るのか詳しく聞くことはしなかった。妹のやる気を削ぐような真似はしたくはないとマグは口を噤む。
「そうですね。私は全然構いませんよ。ただ……少しだけお願いがあります」
シニカはノリアの頼みを条件付きで快諾する。
「条件って、なんですか?」
「月に一度、血を数滴で良いので分けてください。最近はシーナに血を分けてもらう機会も減りましたから」
「う……」
複雑な表情を浮かべるシーナを横目にシニカはぼやく。
今までは助言を与える対価に血を分けて貰っていた。しかし最近はシーナがいることでシーナが質問する度に血を貰っていたのだ。
だが、それにも飽きのようなものが出てきてしまった。勿論、シーナが賢くなって質問する回数が目に見えて減ったのもそうだが。
「わかりました。ちょっと怖いけど、今やってみます」
ノリアは袖を捲り、手首に果物ナイフで傷を入れる。傷から顔を出した鮮やかな赤色がシニカの根に落ちる。
血の味に違いなんてあるのかとシーナは首を傾げるが、当のシニカはどこか満足そうに伸びをしていた。
「…………くっ」
誰かの口の中で、嫌な音が鳴る。
***
シニカから沢山のことを学び、樹海に茂る植物についても大分詳しくなってきた。
この頃のシーナは十九、マグとノリアはそれぞれ十七と十一の歳。特にノリアは他の同年代よりも自然について詳しいと言えよう。
だから、日に日にマグの望みは大きなものになっていく。
「ノリア。お前、本当に学園に通う気はないのか?」
マグは再度、ノリアへ質問した。ノリアは呆れたように口を開く。
「……何度も言ったと思うけど、私はここで頑張ってみたいの。お兄ちゃんは応援してくれないの?」
「うっ」
マグは返しづらいノリアの言い回しに口ごもる。ノリアの決意は変わらず、パープレア大樹海で生活することに不満はないようだ。
「そこまでにしてくださいね。これから魔法の時間ですよ」
シニカが二人の口論を止めた。そして手を二度叩いて注目を集める。これから始まるのは魔法の講義。魔王であるシニカが直々に魔法の何たるかを
マグとノリアは目を輝かせると、シニカに期待のこもった眼差しを向ける。
「いいですか。魔法という技術は魔法陣の組み合わせで何通りもの効果をもたらすことができます。例えばこの陣なら、陣の内側にある図形を変えることで威力や速度、命中率を変化させたりできますね」
シニカの説明に、二人揃って顔が死んでいた。
否、こればかりは結果しか話していないシニカの物言いが問題だろう。シニカは自慢の魔王スマイルを浮かべると、噛み砕いた説明を始めた。
「じゃあそれぞれの魔法陣について説明していきましょうか。ぼうっとしている時間はお終いですよ」
手を二度叩いて視線を集める。
「まずはこの属性陣。火、水、風、土の四つの元素を操るために使います」
そう言ってシニカは四属性の陣を枝で描いてみせた。図形を一言で説明するなら火属性は荒々しく、水属性は滑らかな曲線、風属性はギザギザの折れ線が特徴的。そして、土属性は幾何学模様に似た形であった。
それぞれ形の異なる魔法陣にマグの瞳が輝く。
「そこに魔力を流し込むことで、こう……このように陣が光り出します。この中身をどこか別の場所へ移すために先程の方位陣があるんですよ」
先程シニカが見せた、図形を変化させることで威力を調整できる陣。魔法は基本として、属性陣と方位陣を組み合わせることで発動するのである。
ただし、例外もつきものだとシニカは伝えた。
「その例外についてはまた今度、お話しましょう」
そう言ってシニカはまた、眼を閉じる。