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渦潮の魔王

 そこは何も見えない霧の中だった。

 水の上でボートを漕いでいたら途端に視界が悪くなったのだ。

 理不尽だ、と男は思う。ボートで少し海を見たかっただけなのに、視界は水滴に奪われおまけに天候も悪い。男は帰路がどの方角なのかすら見失っていた。


「────るぞ」


 何かが水蒸気中を反響する。水蒸気を通り抜け、聴こえる声は轟音。


「──がいるぞ」

「え?」


 男の中に少しの恐怖心が顔を出した。聞き間違いなどではなく、確実に聴こえる野太い声。


「ドラゴンがいるぞぉぉぉぉぉ!!」


 瞬間、霧の中に巨大な影が映る。それは紛れもなく水竜ウォータードラゴンの姿だ。その影が今、咆哮を発していた。


「うわぁぁぁぁぁ!!」


 男は怯え急いでボートを漕ぐ。

 霧を早く脱出しなければ、待っているのは確実に地獄への片道切符だ。

 男は涙目でボートを漕いだ。

 すると霧は突然に晴れ、青空が映る。先程まで見えなかったはずの対岸も鮮明に見えていた。


「あ、あの霧はなんだったんだ……?」


 男は誰かのイタズラかもしれないと自分を無理やり納得させる。しかし影にしてはあまりにも現実味があり、どうにも納得しきれない不思議な気分だった。

 その影は──正体不明unknown


 ***


「今日はさっそく、店を準備しましょうか」

「「ええぇっ!?」」


 明朝。シニカは要件を述べる。

 いつも通りのニコニコとした笑みで。

 しかし店を準備するにも辺り一面何も無い。「準備もなにもないじゃないか!」とマグが突っ込むも、渾身のツッコミは微笑で流されてしまった。

 ちなみにノリアは布団の中である。


「店舗を用意するのはそんなに難しいことではありません。魔法陣を使えば良いのです」

「魔法、陣を?」


 シーナが質問する。シニカがこれから使うのは、魔法ではなく魔法『陣』なのだから。


「魔法をずっと発動しておくのも大変でしょう? それに、二人に与えた住居も魔法陣から生成されていますからね?」


 シニカが言うには、魔法陣は魔石から供給される魔力によって永続的に効果を発揮するものがあるという。

 人間の国ではとても高価な品であるが、魔王の眼前でその常識は必要ない。ただ理論を構築し好きなように魔法陣を描くだけであった。


「それじゃあ始めますよ。二人も準備してください。あと魔石も」


 と、言いつつシニカは懐から拳ひとつ分くらいの魔石を取り出して、双眸を輝かせた。


「これくらいの大きさの魔石であれば、十年単位で形を維持できますね。それでは二人とも、いつも通りに壁の陣を作って、それを十秒くらい保ってください」

「わかったわ」

「わかった」


 シーナとマグはシニカの傍で魔法陣を描き、自分の魔力を注ぐ。すると土壁は四方を囲い、住居の骨格となった。


「はい、これで終了です。ねえ、簡単でしょう?」


 シニカが魔石を魔法陣の中央に設置すると、魔力の供給元が変更され、自動的に魔法が維持される。シニカの同意を求める声に、二人はこくこくと頷く。


「シニカさんは何でも持ってるんですね。あんなに大きな魔石、一体どこから──」


 マグは素直に気になってしまう。しかし、シニカはじとっとした目でマグを睨んだ。


「……乙女に聞くようなことじゃありませんよ。次から気をつけてくださいね」

「なっ!」


 マグは言葉を失う。

 突然にいやんいやん、みたいな言い回しをしてくるのだから余計にタチが悪い。シニカは一瞬の隙に元の無愛想な表情へと戻り、話を進める。


「それでは準備する品物諸共、準備してしまいましょうか」

「「はぁ」」


 シニカの言動に振り回されっぱなしのマグとシーナであった。がっくりと肩を落とす二人の様子すらも、シニカは楽しそうに見つめていたのである。


「この魔王ひとには一生口論で勝てる気がしないわ」


 横目で放ったシーナの言葉に、首を一生懸命振るマグの姿があった。


 ***


「ジュジュの実にオバータの樹皮、ジンセの根を集めてきたぞ。必要なものは、これで全部か?」


 手を土で汚しながら、マグが採取の成果を持ってきた。成分としては、滋養強壮のためのものが多い。


「あとは、ウラレの葉とラシアの根茎が欲しいですね。ラシアの根茎は利水の他にも、傷から雑菌が入った時などにも使えますから、取っておいて損はないです」


 シニカは饒舌に必要なものを述べていく。

 準備は着々と進み、必要な薬草も集まってきた。最後の最後になって、シニカは魔法陣の上に魔石を設置。建物の骨格の隙間を埋めるように木で覆う。


「これが魔王の実力……!」

「そりゃあ、魔王ですから」


 マグの素直な驚き様にシニカはつい、冗談で返してしまった。


「そこにいるのかァ! シニカッ!!」


 叫び声とともに聞こえる轟音。

 建物は瓦礫となって、塵となり──魔石諸共砕け散る。


「なっ……! って、貴女は」

「ふっふっふ! 忘れたとは言わせんぞ、三百年前の屈辱、ここで果たさせてもらおう!」


 頭に手を当てて、シニカは押し黙っていた。彼女にしては珍しく、面倒臭そうな様子だ。


「突然物を破壊しておいて一体何の用ですか、『渦潮の魔王』ランシア=トラク」


 シニカは青髪の女を一瞥した。


「先程も言ったと思うが! 三百年前の屈辱! それを果たす時が! 遂に来たッ!!」


 肩から顎の輪郭までを覆う鱗。

 側頭部から伸びた一対の角。

 龍を思わせる金色のまなこ

 ゴテゴテに裾の太い白のズボンと民族衣装のような袖の短い上着。

 と、見るからに樹海が出身ではなさそうだ。水面よりも青く深い髪は風にたなびいている。


「言い直さなくて結構。速やかにお帰り願いたいですね」

「それは困るぞ! 今すぐにでも勝敗を付けたいところだ!」

「はぁ、そうですか。なら、【Osmotic Pressくたばれ】」


 三つの魔法陣が展開。シニカにしては珍しく、荒い言葉で魔法を発動した。高濃度の塩水でランシアを埋め尽くす。特に、ランシアの口角を集中的に攻撃していた。ランシアは透明なヘルメットを被ったような状態で、呼吸が出来ず気泡がポコポコ外に出る。


「ゴボゴボゴボゴボゴボゴボォ!! ……ぐ、ぐるじぃ」

「負けを認めるなら魔法を解くのも吝かではありません」


 ランシアは片腕で必死に地面を叩く。叩く際の力の入れ具合で口元から大きな泡が飛び出してしまう。

 貴重な空気の泡が消えてしまったことに絶望するランシア。終いには土下座のポーズでシニカにひれ伏していた。


「げほっ! がはっ! しょっぱ!! うくっ!」

「はぁ。貴女が私に勝てたことなんて一度も無かったでしょうに」

「煩い五月蝿いうるさぁぁぁい! うるさいぞシニカ! 勝負に負けど、我は死んではおらん!! それに今のは不意打ちだろう!! こんなもの……我は認めん!」


 拘束が解かれるとランシアは立ち上がり、開口一番に飛び出したのは文句。


「では、そんな貴女に情熱的な死をプレゼントしましょう」


 シニカは手のひらの上に拳大の火球を出現させる。炎は赤色というわけではなく、青、紫を通り越して白色となった。膨大な熱量の塊を天高く掲げて、シニカは前髪の奥で双眸を光らせる。


「さて、どうしますか?」

「ひ、ひぃぃいぃ!!」


 間の抜けた悲鳴とともに、少女の心はぽきりと折れた。ぺたりと尻餅をつくランシアだったが、シニカにとっては


「それじゃあ、貴女が破壊していったこれら全て元に戻しておいてくださいね」

「そ、そんなぁ」


 因果応報。破壊した物を元通りにするまで、ランシアを帰すつもりは毛頭ないようである。涙目の魔王は手を地べたにつけて崩れ落ちた。


「し、シニカさん。これは一体」

「見ての通り罰掃除ROUDOUです。まったく、この魔王は要らない仕事を増やしてくれましたね」

「「はぁ」」


 普段のシニカからは想像もつかない呆れた視線と、その横で汗水を垂らす青髪の魔王という歪な光景に、思わずため息をこぼす。

 今も必要なだけの木を伐採し、魔法を使わずに加工をしているランシアの様子をじっくりと観察しながら、シニカは再びため息をついた。しかしその表情には好奇心が隠れており、マグとシーナは別の意味でため息をつく。


 ──やはり、シニカはサディスティックな面があると。

 魔法を使わずに、というところがシニカの一面をさらに助長していた。

 以前から少なからずSサドっ気のある一面があると感じていたシーナだったが、ここまで邪悪な笑みを見てしまうと過去に王国を滅ぼしたという話を改めて実感する。

 シーナはどこか複雑な面持ちで、シニカの横顔を見つめた。


「シニカ! 我の仕事は終わった! もう、帰るッ!!」


 既に加工されて凸凹の溝をつけた木材を横に並べ、ランシアは無い胸を張る。


「いいえ、まだですよ。まだ貴女の仕事は終わっていません。魔法を使わずに、しっかりとこれらを組み立ててくださいね」

「な、なッ……!!」


 不運な事に、自信に満ちたその表情は直ぐに崩れ去ることとなった。『ガビーン!』という擬音が顔に張り付く。

 ランシアの表情は、大変わかりやすいものであった。


((や、やっぱりこの人を敵に回してはいけない!))


 シーナとマグは再び戦慄する。


 ***


 建物の建設が無事に終わり、汗だくの状態でランシアはシニカを睨む。三百年前の屈辱と言いながら、新たに屈辱を与えられてしまったがために、今すぐにでも逃げたい気分だった。

 睨まれたシニカは涼しい顔をしており、その表情がランシアの心情を逆撫でしてくる。


「最後にお願いがある」

「突然に改まって、どうしましたかランシア?」

「我ともう一度……勝負してくれ! 今度は不意打ちなど無く、純粋に力が及ぶのか確かめたい!!」


 ランシアは傍らで眺めていた少年、少女を指さすと、審判役に指名した。


「確かマグ、そしてシーナと言ったか! お願いだ、審判役を務めてはくれないか!」

「別に、いい……ですけど」


 シーナは一瞬困惑するがランシアの頼みを了承する。すると長い青髪をたなびかせて笑顔が咲いた。


「ありがとう! 恩に着る!!」


 それからして、渦潮の魔王と呼ばれたランシアのリベンジマッチが始まる。

 ランシアの双眸には、地面に根を張り巡したアルラウネの魔王しか映り込んではいなかった。


「それじゃあシニカさんとランシアさん。ここの位置とあの位置に立って向かい合って下さい」


 比較的開けた場所へ移動し、あくまで公平になるようシーナが指示をする。二人の魔王の距離はわずか十メートルほど。普通の人間が十歩進めば接近できる距離である。

 合図があるまでは互いに魔法は発動してはならない。そして、開戦の合図はマグによって下される。


「始めっ!」


 瞬間、シニカは地面に魔法陣を展開させると、土の柱がランシアへ接近した。地面からせり上がり、順々に地面が隆起する。迫りつつある土の塊に対して、ランシアは空中に魔法陣を展開。

 属性陣は水。方位陣や沢山の魔法陣を並べて放ったのは糸のように細い水流。高圧の水流は勢いよく土壁となった柱を穿っていく。


「それだけじゃ甘いですよ。【消し飛べdry up】」


 シニカは火と風の属性陣を展開し、けたたましい熱風を発生させた。熱は水流を一瞬で蒸気へと変貌させ、気流が水蒸気を押し返す。しかし、すべての水蒸気を押し返すのは難しく、シニカの根が温水に濡れた。根がふやけることで地上部じょうはんしんをまっすぐに保つことが難しくなる。


「なるほど。これを狙っていましたか」

「その通りだ! 今度こそは、我が勝つ!」


 ランシアは胸を張り、大きく笑ってみせた。地面を軽く蹴りシニカの眼前へ跳躍する。属性陣を描く指先は踊り、瞳の奥には熱が滾っていく。


 しかし、熱と水分を吸収してしまったシニカは──不敵にも笑っていた。


「でも、このまま負けるつもりはありませんので」


 シニカの双眸の奥で炎が揺らめく。水の泡が指の先に咲いた。


「その状態で水属性とはな。やはり今度こそ! 我が勝つ!!」

「さてどうでしょうか」


 ランシアが放った火の魔法にシニカは指先を立てて、水の泡をプカプカと前へ飛ばす。

 瞬間、雲の源が地表面を蹂躙し、視界が全て奪われる。混乱するランシアの声を耳にしながら、彼女がいるであろう場所へ方位陣と属性陣を展開する。

 属性は風。真空に近い空気弾を生成し、ランシアへ発射する。鼻の先に弾が直撃する直前で、勢いを失速させた。


「まさか、こんな……こんなことは。また負けた」

「はぁ、久々に良い運動になりましたよ。ありがとうございました。渦潮の魔王ランシア=トラク」


 地面に仰向けに寝そべったまま、ランシアは歯を剥き出しに笑っていた。

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