北の大地から森を訪れた男がいた。
男は小太りで、重たい足を無理に動かす。噂を聞きつけてからというもの、男は僅かな望みを手の中に海を渡った。息を切らし、熱に侵されながら、額に滲む冷や汗を片手で拭う。
原因不明の病を患ってからというもの、腹が突然に膨れだし高熱が出た。ゾクゾクとした寒気を覚えるが、男の近くで伝染病の話は聞いた覚えがない。
「はぁ、はぁ」
辛い、辛い、辛い。
男は歩きながらお腹を摩る。ある時突然膨れ出した腹。臓器を圧迫するような膨満感。そして、言語では表現できないような苦痛。
男は華の精を求め、この樹海までやって来た。
辺り一面見回しても、華の精は見つからない。広い森の中、今いる場所が離れているのだろうかと、男は絶望する。
***
「シニカさん」
「はい、なんでしょう」
「ここの方位陣なんだけど、どうにも上手く発動できないの」
青い瞳を輝かせて、シーナは質問する。丁度、シニカから魔法陣のあれこれを教わっていたのだが、どうにも思った通りの魔法にならない。ちなみに、マグとノリアは買い出しと薬草採取のため外出中である。店の中に二人。魔法陣について詳しく質問できるのは今しかない。
「そうですね。まずは魔法陣を上からしっかりと見つめ直してみましょうか」
「上からですか……? あっ」
「気がつきましたか?」
「はい」
シーナが構築した魔法陣のうち、属性陣はなんら問題ないと言える。しかし、方位陣については──陣の途中で線が途切れている部分があった。シーナの驚く様子を見てニヤリと笑うと、シニカは言葉を付け足す。
「本来、魔法というものは目に見えません。ですから、魔力に気を遣いがちだと思います。見えないはずの魔法を見える形にしたものが魔法陣なのですから、目に見えるものをしっかりと見つめなければなりません」
シニカの言葉に、深く頷くシーナ。
すると、店のドアをノックする音。雑にドアを開けて、飛び込んできたのはノリアの悲鳴だ。
「シニカさん大変! 人が倒れてる!!」
「っ!?」
「その方はどこにいますか? すぐに連れてきてください」
驚くシーナとすぐに対応するシニカ。
「連れてくるもなにも、今背負って……ますよ」
遅れて戻ったマグの背中には小太りな男が乗っている。否、小太りにしては顎に肉が無い。腹が風船のようであった。
「とりあえず急いで治療しましょう。これは恐らく……魔法で対処するほかなさそうですね」
それからシニカは「私の目の前に患者を寝かせてください」と言う。マグは言われたままにそっと男を横に寝かせる。
「やはり、膨れた部分が右側に少し傾いていますね。【
シニカは手の平を膨らんだ腹部に当てて魔法を唱えた。病気の原因となる場所を探り当てて、水と風の属性陣を展開する。バチバチとした音とともに魔法が男の腹の中に流れ込んだ。
「麻痺の魔法……!? どうして」
傍でシーナは口を大きく空けているが、シニカは魔法で病原体の動きを止める。そしてもう一つ。魔法を重ね掛けした。
「【
瞬間、何かが燃え尽きる音がする。それに伴って腹部の膨張も元の姿へと戻っていく。冷や汗はまだ治まっていないが、やがて汗は引いてくるとシニカは判断した。すぐ傍から憧れの眼差しがキラキラと向けられている。シニカは複雑な面持ちでシーナへ視線を移した。
「……これで病原体のほうは倒せました」
「やっぱりすごいですね、シニカさんは」
「いいえ。出来ることは全てやりきりましたが、回復するかどうかはこの方の力次第です。しっかりと様子を観察しなければなりませんね」
そこで改めて実感する。シニカは魔王であることに。シニカの表情はまさしく、魔王のような毒々しい眼差しであった。
***
それから数日。
ベッドの上で眠り続けた男は目を覚ました。
「ここは……っ、さっきまでの痛みが嘘みたいだ」
腹の辺りを擦り、無事に生きていることを確認する。やがて部屋の中を立ち込める不思議な香りに鼻をヒクつかせた。
「お目覚めですか?」
部屋の中まで移動して、シニカは尋ねた。
「ああぁ……。もしや、貴女が──華の精?」
「まあ、そう呼ばれる時もありましたね。私は不殺の魔王エフェドラ=シニカです」
「魔王……」
男の驚愕を他所に、シニカは率先して容態を確認する。
「それで、体調のほうはいかがですか?」
「そうだな、痛みもなければ熱も下がっている。一体、これはどうしてなんだ?」
改めて病が治っていることを実感した。しかし男にとっては疑問がいくつか残る。
「その疑問を含めてこれから私は貴方に五つの質問をしなければならません。質問に対して、貴方のことを詳しくお聞かせください。貴方の身に起こった出来事を」
男は顔を頷かせた。
「それではまず一つ目の質問になります。貴方はどこから来ましたか?」
シニカの問いに男は口を開いた。
「私はここより北の国から来ました。ですがある日、原因不明の病を患い、華の精を探していたんです」
「そうですか。それは災難でしたね」
一つ目に得られた情報は北の大地で
「では、貴方の国の風土について知っていることを教えていただけますか」
二つ目の質問。住む地域に根差した伝染病の類かもしれないと、その可能性を否定するための質問だ。
「まず、寒いので鍋料理が有名です。レンガ造りの建物が並んでいて、寒さを好む動物がたくさん住んでいます。……って、これがどのような役に立つんです?」
「大丈夫ですから、そのまま続けて下さい」
シニカはそっと手の平を上に、指先を男へ向ける。男はそのまま話を進めた。
「毛並みのある動物がたくさん住み着いているんです。昔から偶然見かけたキツネたちとよく戯れていましたよ」
「そうですか。貴方を取り巻く状況は良く分かりました」
シニカの眼が鋭く光る。まだ二つしか質問をしていないが、それでも確証が得られたのだろう。シニカは改めて口を開く。
「これは確認の質問になりますが……貴方と同じ病気を患っている人はいますか?」
「……いる。いたと思います。私は北と南の物品を
「その方は北の国出身でしたか?」
シニカの質問に男は右上を見上げて、やがて溜め息をついた。
「商人ギルドで耳にしたので恐らく、北国出身だとは思うのですが……分からないです」
四度目の回答にシニカは「やはり」と頷いている。
そして最後の質問。
「では、キツネに触ったのは
「覚えている限りだと、半年くらい前ですね」
男は半年前に戯れたきり、キツネには触れていないと言う。
「原因不明と言っていましたが、原因は間違い無いかと思います。貴方の病の原因はズバリ、キツネです」
「キツネが原因……ですか?」
「ええ。厳密には……キツネの体内に潜む、小さな小さな虫が貴方のお腹の中で大きく育った。これが真相です」
「小さな、虫。原因は寄生虫だったのか」
虫、虫、虫と。シニカの言葉を男は
「華の精の噂は、本当だったんですね」
「私は魔王ですが、貴方を救えたのは事実です」
腹が元に戻った男の容姿は決して小太りではない。むしろ体幹のすらっとした長身の男であった。柔らかな笑顔をシニカへと向けて礼を口にする。それから男は故郷の国へ旅立っていったのだった。
その背中を眺めていたシーナ、マグ、ノリアは改めて、その膨大な知識量に尊敬の念を抱いていた。
「シニカさん」
「はい、なんでしょう?」
「どうしてキツネだと気づいたんですか?」
シーナは問う。
「寒い地域のキツネには触れてはいけないと昔から云われているのですよ」
ウインクをしながら答える。シニカは一度咳払い。それから言葉を続けた。
「真面目な話になりますが、キツネの持つ病原体は肝臓で肥っていくので。状況的に間違いなかったのですよ」
***
それから華の精の噂は大きく広がることとなる。
──パープレア大樹海には、病を治す妖精がいる、と。
「シニカさん、今日のお水よ」
「ええ、ありがとうございます」
僅かな日が差し込む、からりと澄んだ朝。
花に水やりではないが、同じ要領で地面に張り巡る根に冷たいシャワーを浴びさせるシーナ。シニカは気持ち良さそうに伸びをした。
マグとノリアは皆の朝食を家の中で作り、フルーツや穀物の香りが漂う。
「朝食できましたよ、お二人とも」
ノリアが扉の外で、シニカ達に大きく手を振ると二人は顔を見合わせた。
「それじゃあご飯を食べに行きましょうかシーナ。今日はやることが山積みです。当然、教えることも多いですよ?」
「べ、勉強……」
表情が若干曇る。シニカはその反応さえもニマニマと笑みを浮かべて眺めていた。「やはり魔王だ」と言わんばかりに、ジト目で睨むシーナ。
「早くしなければ、ご飯が冷めてしまいますよ? シーナ」
「はい!」
二人は家の中へ入っていく。
バタンと閉まるドアの音で、鳥が数匹飛び去ったのは言うまでもない。