――王都。
王女ソフィーの執事、クルスは王城を脱出し、ガルタス商会へと向かっていた。
クルスは王女に仕える執事としてそれなりに顔が知られた存在。そんなクルスが王都から出て行こうとすれば怪しまれるだろう。――特に、王女が軟禁された今となっては拘束される可能性すらあった。
だからこそクルスは王女と協力関係にあるガルタス商会に依頼し、秘密裏に王都から脱出しようと考えていたのだ。
三階建ての、レンガ造りの立派な建物。王都でも一、二番を争う規模の商会。それがこのガルタス商会であった。
クルスはなるべく堂々とした態度で受付に移動し、受付嬢に声を掛けた。
「失礼。ビルノー産のワインを探しているのですが」
「……はい。少々お待ちください」
ビルノー産のワインという隠語。そして見慣れたクルスの顔。事態を察した受付嬢が奥へと引っ込み、商会長を呼んできた。
顔に深い皺が刻まれた初老男性。ガルタス商会を一代で大きくしたガル・ガルタスだ。
「これはこれはクルス様。ビルノー産のワインとはお目が高い。どうぞ奥へ」
にこやかな態度のガルがクルスを商会の奥へと案内する。
廊下を進み、一番大きな応接間へ。
しっかりと鍵を掛けたことを確認してから、ガルがソファへと腰を下ろした。
「――聞いたぞ、坊主。王女殿下が軟禁されたらしいな?」
先ほどまでのにこやかな態度とは打って変わった乱雑な口調。しかし良くも悪くも慣れているクルスは特に気にすることなく対面のソファに腰を下ろした。
「ソフィー様はアーク殿に助けを求められました」
「あぁ、まぁアークの野郎なら何とかするだろうな。あいつは
くっくっくっ、と。心底楽しそうに喉を鳴らすガル。彼はクルスの報われない恋心を知っているのだ。
「…………」
カッと頭に血が上ったクルスだが、努めて冷静さを取り戻す。
ソフィーは軟禁されそうになったときも、目の前にいるクルスではなく、アークに助けを求めた。
――自分は、頼ってもらえる存在ではない。
――結局は、アークに勝てなかった。
それは失恋であるし、男としての落第点であるし、執事としての失格であった。
だが、怒りを発してもしょうがない。
怒り、恨んだところで、自分は選んでもらえなかったという事実は変わらないのだから。
「……いい顔だ。協力してやろうじゃねぇか。ついて来な」
そう言ってガルが案内してくれたのは、商会の裏手にある車庫だった。賓客用のものであろう豪勢な馬車や、普段使いの荷馬車まで各種雑多に並べられている。
そんな馬車の中の一つにガルが近づいていく。使い古された、何の変哲もない
「この馬車は特別製でな。馬車そのものに認識阻害の術式が備え付けられている。たとえ変装無しで乗っても、門番がお前だと気づくことはないだろう。さらに変装用の魔導具を身につければ完璧だ」
「そんなものが……。いったい、どんなことに使うんです?」
「おっと、それ以上尋ねてくるならこの話は無しだ」
「……分かりました。念のため変装用の魔導具もお借りしたいのですが」
「高級品だからな。王女殿下にツケておくぜ?」
「……緊急事態ですから、仕方ありませんか」
急いでいたせいでクルスにも手持ちはないのだ。一旦は王女殿下にツケさせていただき、あとで自分が返済しようと心に決める。
「生真面目な男だなぁ」
くっくっくっ、と。まるで心を読んだかのようにガルが笑う。
「ま、そんな男だからこそ国王陛下も安心して王女殿下の執事にしたのだろうがな」
「…………」
人間として信頼されているのか。男として舐められているのか。微妙な心境になってしまうクルスだった。
「ま、いいさ。もう一人『お客人』が到着したら出発だ。貴族向けの馬車と違って揺れるからな、酔い止めを持っているなら飲んでおくといい」
「お客人?」
「おうよ。お前さんと同じく王都から脱出する
「ご令嬢?」
ご令嬢と言うからには貴族なのだろう。
これから王都は荒れるだろうから、貴族が領地に帰って事態が落ち着くのを待つというのは不自然ではない。が、貴族令嬢をこんな馬車に乗せて王都から逃がすとなると……。
(家族が王太子に反発して投獄された?)
それが一番可能性が高いだろうが、そうなると王都から脱出したところで行く当てはあるのだろうか? 実家は爵位剥奪・領地没収という可能性もあるわけだし……。
しょせんは他人事。
だが、妙に気になってしまうクルス。優しいのだし、甘いのだろう。
そんな彼の心配を読み取ったかのようにガルがにやりとした笑みを向ける。
「年頃の娘さんだからな。道中、なにかと気に掛けてやってくれ」
「それは、構いませんが……自分はアーク殿がいるであろう魔の森へ向かうのですよ?」
そのご令嬢の目的地はどこなのですか? と、クルスが尋ねようとしたところで――背後から声が掛けられた。
「――やぁ、すまない。待たせたね」
若い女性の声。その落ち着き払った響きからは上品さすら感じ取れるが……貴族令嬢にしては、少々、こう、妙な言葉遣いではないか?
訝しみながらクルスが振り返ると、その先にいたのは――なんとも美しい少女だった。
年の頃はソフィーと同じくらいだろうか? 貴族としては特に珍しくもない金髪。少々勝ち気な目。一本筋が通った鼻に、どこか自信ありげに釣り上げられた口端。
美しい。
確かに美しいのだが、『たおやかなる淑女』であることを求められる貴族令嬢らしからぬ挑戦的な顔つきだった。
(……ん?)
どこかで見たことがある気がする。
そして、誰かに似ている気がする。一体誰だったか……。
悩むクルスの顔を見て、美少女は僅かに目を見開いた。
しかしそれも一瞬。まだ名も知らぬ美少女はからかうようにその目で弧を描いた。
「――やぁ、久しぶりだねクルスさん」