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──深い、深すぎる海の底にいた。
息ができないから、助けを求めようと両手を動かす。
本来なら人の身体は浮くようになっているらしいが、こんな深淵の底まで来ると、浮遊感はまるでない。
──深く沈んだままなら、自身が望む方への恋愛と一緒で、思い切って行動すればいい。
そうして
その姿はこの海を液晶TVから観てるものにとっては、
だが、まるでそのような予想もせずに、ひたすら夢中に水を掻く。
浮力が体全体にまとわりつき、スムーズに動きをコントロールできず、ただ海水の流れに身を委ねる。
波に拐われ、身も心も泳ぎ疲れたこともいざ知らず、魚の群れは何の反応もなく、目の前を通り過ぎていく。
幸い、エラ呼吸にクラスチェンジしたのか、この水中で溺死することもなく、全知万能の神のお導きかと、過剰な期待をしていた。
……って、何様のつもりだよと苦笑する。
お役所じゃあるまいし、自分で分かったように難しい言葉を並べて、偉そうにしてんじゃねーぞ。
さてと、気を取り直してと……あれは小アジの仲間だろうか。
魚が群れを作って泳ぐのは、他の魚に食べられないように、大きな魚を演じて驚かすという手法らしいが、大きな魚にとってはビビるどころか、逆に沢山食べれて好都合だったりする。
──再び、手の平に意識を集中させる。
自分が何者で、どうしてこのような海中にいるのかを知るためだ。
──左腕の手首に付いた縫い目の跡。
この縫合された傷口には覚えがある。
確か大事な人を目の前で失って、自身も後を追いかけようとした傷痕。
比較的、新しい傷痕でもあったが、その傷は生きることを諦めたくない、
──人という生き物は、自分の時間を作ろうと孤独を好むわりには、一人で死ぬのが怖い。
だから一人では死ねずに、できるだけ生にしがみつく。
近年のニュースで自害と共に、よくある近辺や関係ない人たちを巻き添えにするのは、それが原因だと言う専門家もいた。
まあ、専門家という職業ながら、どんな答えを出しても、その言葉にすんなり納得して、批判する人は少ないものだが……。
──そうか、俺はこんな海で漂わず、地上に生還し、一人の人間として、精一杯生きたいのか。
生きることをやめた、あの子の分まで懸命に……。
──俺の名は、
これは最愛の人と別れて、行くあてもなく一人となった、ボッチな男の物語りでもある……。
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「──賢司、そろそろ起きないと、学校に遅刻するわよ!!」
すぐ隣から、女らしき甲高い声が伝わってくる。
いや、野郎がこんなソプラノ声を出せるはずがないし、男独特の繊細な声帯が割れるだろう。
だったら、ここは極楽浄土という場所なのか……おまけにフカフカしていて、どこからか香ばしい匂いもする。
「……んあ? ここはあの世か?」
「あのねえ、あの世だったら、布団も無いだろうし、トーストの匂いなんてしないでしょ」
茶色の遮光カーテンの隙間から光が射し込む自室にいつもの相手、栗色のボブスタイルな美人の母さんが、俺が寝てる前で必死にラストオーダー(今日も会社に泊まり込み?)をしている。
トーストに愛の形をしたイチゴジャムを塗っていて、お互いの愛を証明するために食べてみせてよと、俺の脳内ではそんなイメージだ。
そしてラストオーダーの絶品トーストは、冷凍のママだから気合入れていこうか。
待て待て、絶品以前に、解凍すらもしてないのに、何のアピールだよ……。
好き嫌いはするなと親から言われ続けても、こんなカチコチのアイストーストをかじる限りじゃあ、雪男な設定か。
待てよ。
一つだけじゃなく、他の二つの気配も感じるよな、クンクン。
「……目玉焼きとサラダのトマトの匂いもする」
「あははっ。トマトもって、どんだけ鼻いいの。朝から笑わせてくれるわねw」
母さんがケラケラと軽く笑ってみせて、ベッドでアイドルの抱き枕とセットで、仰向けな俺の両手を掴んで起こす。
彼女の憂いを帯びた唇と、星屑のように煌めいた大きな瞳に吸い込まれそうになり、思わず顔を背けてしまう。
ああ、世の中は二次元に限るとかいうリアル女が苦手なダチもいるけど、実際イイ女というものは、二次元の抱き枕なんかより、数倍も綺麗で癒やされるものだ。
いい香りもするし、素肌も鮮やかだし、こちらが頑張って会話を選ばなくても、向こうから無限に生み出されるトーク力。
大人ならではのアダルトな魅力がある体つきには何度、心を狂わされたか……。
「……あのさ、母さん」
「何、マジな顔して。母さんに愛の告白?」
「……似たようなものだけど。あのさあ……」
綺麗に整頓された室内、隅々まで清掃された部屋。
この清潔感が行き届いた空間は、自堕落な息子を気遣い、みんな母さんがやってくれたお陰だ。
俺は母さんの優しさに感謝し、アイドルみたいな顔つきの母さんを意識しながらも、この想いを言い出す決心をする。
さあ、この部屋は二人だけだし、打ち明けるなら今しかない。
心の中で気持ちの整理さ、あああああいうえおあお。
「……ねえ、母さんはいなくならないよね?」
「うん、大丈夫。母さんは賢司の側に居るわ。約束するわ」
「例え、
「あははっ、何言ってるの。骨になろうと筋になろうと、何があってもずっと一緒よ」
目の前で両手を包み込んで、優しく微笑んでくる母さん。
指輪の痕が薄く残った薬指を絡ませながら、母さんはまるで自分に言い聞かすように、ずっと笑顔をこっちに向けていた。
もし今度の誕生日、贈り物は母さんのメイドエプロンのフィギュアだったら、一生宝物にするよ。
俺は我が子ながらも、ヨーロピアンな彫刻のように美しすぎる母さんに、正直惚れていた……。
◇◆◇◆
──ファッションデザイナーの社長で、独立した会社を立ち上げた俺の父さん。
仕事の売り上げも成績も何もかも順調で、同じ立場の母さん、
企業としても成功を治めた勝竜家は資産家としても有名となり、その名をTVやネットまでのメディアにも刻みつけた。
芸能人やグラビアのデザイナーを頼むなら、
そんな風に順調に、天の地位さえも掠めとっていった父さんは、ある日を境にこの街から蒸発した。
デザイナーとしての奇抜な才能に、恨みや妬みを感じた芸能人のファンから車で拉致され、どこかの異端の場所に幽閉された後、そのまま命の灯火を消したらしい。
当時五歳だった俺は、父さんがいなくなったことに理解できず、母さんから『より良いお仕事のお勉強のために、長い旅に出たんだよ』とおとぎ話のように毎晩、枕元で聞かされた。
まだ幼いゆえ、事務的な内容はこれっぽっちも分からないままだったが……。
俺が父さんの死を知ったのは、それから四年後の九歳の頃だった──。