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第21話 おとぎ話のように毎晩、枕元で聞かされた

◇◆◇◆


 ──深い、深すぎる海の底にいた。

 息ができないから、助けを求めようと両手を動かす。


 本来なら人の身体は浮くようになっているらしいが、こんな深淵の底まで来ると、浮遊感はまるでない。


 ──深く沈んだままなら、自身が望む方への恋愛と一緒で、思い切って行動すればいい。


 そうして足掻あがくまで、腕を大きく回してみる。

 その姿はこの海を液晶TVから観てるものにとっては、滑稽こっけいな映りかも知れない。


 だが、まるでそのような予想もせずに、ひたすら夢中に水を掻く。


 浮力が体全体にまとわりつき、スムーズに動きをコントロールできず、ただ海水の流れに身を委ねる。


 波に拐われ、身も心も泳ぎ疲れたこともいざ知らず、魚の群れは何の反応もなく、目の前を通り過ぎていく。


 幸い、エラ呼吸にクラスチェンジしたのか、この水中で溺死することもなく、全知万能の神のお導きかと、過剰な期待をしていた。


 ……って、何様のつもりだよと苦笑する。

 お役所じゃあるまいし、自分で分かったように難しい言葉を並べて、偉そうにしてんじゃねーぞ。


 さてと、気を取り直してと……あれは小アジの仲間だろうか。

 魚が群れを作って泳ぐのは、他の魚に食べられないように、大きな魚を演じて驚かすという手法らしいが、大きな魚にとってはビビるどころか、逆に沢山食べれて好都合だったりする。


 ──再び、手の平に意識を集中させる。

 自分が何者で、どうしてこのような海中にいるのかを知るためだ。


 ──左腕の手首に付いた縫い目の跡。

 この縫合された傷口には覚えがある。

 確か大事な人を目の前で失って、自身も後を追いかけようとした傷痕。


 比較的、新しい傷痕でもあったが、その傷は生きることを諦めたくない、躊躇ためらいの傷でもあった。


 ──人という生き物は、自分の時間を作ろうと孤独を好むわりには、一人で死ぬのが怖い。

 だから一人では死ねずに、できるだけ生にしがみつく。


 近年のニュースで自害と共に、よくある近辺や関係ない人たちを巻き添えにするのは、それが原因だと言う専門家もいた。


 まあ、専門家という職業ながら、どんな答えを出しても、その言葉にすんなり納得して、批判する人は少ないものだが……。


 ──そうか、俺はこんな海で漂わず、地上に生還し、一人の人間として、精一杯生きたいのか。

 生きることをやめた、あの子の分まで懸命に……。


 ──俺の名は、勝竜賢司しょうりゅうけんじ

 これは最愛の人と別れて、行くあてもなく一人となった、ボッチな男の物語りでもある……。


****


「──賢司、そろそろ起きないと、学校に遅刻するわよ!!」


 すぐ隣から、女らしき甲高い声が伝わってくる。

 いや、野郎がこんなソプラノ声を出せるはずがないし、男独特の繊細な声帯が割れるだろう。

 だったら、ここは極楽浄土という場所なのか……おまけにフカフカしていて、どこからか香ばしい匂いもする。


「……んあ? ここはあの世か?」

「あのねえ、あの世だったら、布団も無いだろうし、トーストの匂いなんてしないでしょ」


 茶色の遮光カーテンの隙間から光が射し込む自室にいつもの相手、栗色のボブスタイルな美人の母さんが、俺が寝てる前で必死にラストオーダー(今日も会社に泊まり込み?)をしている。


 トーストに愛の形をしたイチゴジャムを塗っていて、お互いの愛を証明するために食べてみせてよと、俺の脳内ではそんなイメージだ。


 そしてラストオーダーの絶品トーストは、冷凍のママだから気合入れていこうか。


 待て待て、絶品以前に、解凍すらもしてないのに、何のアピールだよ……。

 好き嫌いはするなと親から言われ続けても、こんなカチコチのアイストーストをかじる限りじゃあ、雪男な設定か。


 待てよ。

 一つだけじゃなく、他の二つの気配も感じるよな、クンクン。


「……目玉焼きとサラダのトマトの匂いもする」

「あははっ。トマトもって、どんだけ鼻いいの。朝から笑わせてくれるわねw」


 母さんがケラケラと軽く笑ってみせて、ベッドでアイドルの抱き枕とセットで、仰向けな俺の両手を掴んで起こす。


 彼女の憂いを帯びた唇と、星屑のように煌めいた大きな瞳に吸い込まれそうになり、思わず顔を背けてしまう。


 ああ、世の中は二次元に限るとかいうリアル女が苦手なダチもいるけど、実際イイ女というものは、二次元の抱き枕なんかより、数倍も綺麗で癒やされるものだ。


 いい香りもするし、素肌も鮮やかだし、こちらが頑張って会話を選ばなくても、向こうから無限に生み出されるトーク力。

 大人ならではのアダルトな魅力がある体つきには何度、心を狂わされたか……。


「……あのさ、母さん」

「何、マジな顔して。母さんに愛の告白?」

「……似たようなものだけど。あのさあ……」


 綺麗に整頓された室内、隅々まで清掃された部屋。

 この清潔感が行き届いた空間は、自堕落な息子を気遣い、みんな母さんがやってくれたお陰だ。


 俺は母さんの優しさに感謝し、アイドルみたいな顔つきの母さんを意識しながらも、この想いを言い出す決心をする。


 さあ、この部屋は二人だけだし、打ち明けるなら今しかない。

 心の中で気持ちの整理さ、あああああいうえおあお。


「……ねえ、母さんはいなくならないよね?」

「うん、大丈夫。母さんは賢司の側に居るわ。約束するわ」  

「例え、骨皮筋太郎ほねかわすじえもんになっても?」

「あははっ、何言ってるの。骨になろうと筋になろうと、何があってもずっと一緒よ」


 目の前で両手を包み込んで、優しく微笑んでくる母さん。

 指輪の痕が薄く残った薬指を絡ませながら、母さんはまるで自分に言い聞かすように、ずっと笑顔をこっちに向けていた。


 もし今度の誕生日、贈り物は母さんのメイドエプロンのフィギュアだったら、一生宝物にするよ。

 俺は我が子ながらも、ヨーロピアンな彫刻のように美しすぎる母さんに、正直惚れていた……。


◇◆◇◆


 ──ファッションデザイナーの社長で、独立した会社を立ち上げた俺の父さん。

 仕事の売り上げも成績も何もかも順調で、同じ立場の母さん、烈火れっかと巡り会い、父さんは段々と注目を浴びていった。


 企業としても成功を治めた勝竜家は資産家としても有名となり、その名をTVやネットまでのメディアにも刻みつけた。

 芸能人やグラビアのデザイナーを頼むなら、勝竜龍郷しょうりゅうたつごうに任せれば上手くデザインをしてくれ、その銘柄ゆえに商談さえも進むと、不動の人気をものにしていた。


 そんな風に順調に、天の地位さえも掠めとっていった父さんは、ある日を境にこの街から蒸発した。


 デザイナーとしての奇抜な才能に、恨みや妬みを感じた芸能人のファンから車で拉致され、どこかの異端の場所に幽閉された後、そのまま命の灯火を消したらしい。


 当時五歳だった俺は、父さんがいなくなったことに理解できず、母さんから『より良いお仕事のお勉強のために、長い旅に出たんだよ』とおとぎ話のように毎晩、枕元で聞かされた。 

 まだ幼いゆえ、事務的な内容はこれっぽっちも分からないままだったが……。


 俺が父さんの死を知ったのは、それから四年後の九歳の頃だった──。

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