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「ほら、親父。早くしないとデートに遅れるよ」
「ああ、ちょっと待ってくれ。ネクタイが曲がってる」
「全く、母さんが相手なんだから、別に素でもいいじゃん」
今日は親父と
柄にもなく、タキシードを着込んだ親父が、全身鏡の前でネクタイを整える。
久々に日本に帰国したかと思ったら、これだもんね。
正月でもないのに、家で過ごすのは気が引けるってさ。
こんなにも女たらしの親父がベタ惚れするなんて、さぞかし素敵な女性なんだろうな。
いつになったら、新しい母さんは僕に顔を見せてくれるんだろう。
理由は定かじゃないけど、僕だけがまだ顔を知らないままだから……。
「フフッ、
「うん。
「はははっ、そいつは傑作だ。えらい言われようだな」
「……もう、他人事だと思って」
親父が豪快に笑いながら、僕の背中を叩く。
少し痛いけど、上機嫌みたいだし、同じように笑って誤魔化そう。
前の母さんと別れた直後は、見るに耐えない落ち込んだ様子だったから。
「でもな、そんな志貴野にも恋人がいた時期があったのさ」
「えっ、そんなこと知らないよ」
記憶を探ろうにも、広がるのはセピア色の情景だけで……仲の良い女の子とは夢でよく会うけど、現実では、そんな相手はいないはず……。
まさか正夢とかで、親父は未来を感知できる能力の持ち主で……。
僕は
「まあ、記憶障害だからな。無理に思い出すこともないだろう。あれは悲惨な事故だった……」
事故って、親父は急に何を言ってるんだ。
僕は何ともなく、五体満足で、この部屋に住んでいるのに……。
「……親父」
「どうした、真剣な
親父が短く刈った白髪に、木のクシを丁寧に当てて、少しだけ浮いていた前髪をとかす。
喋りながら身だしなみを整えて、器用な親父だね。
さてと、僕が言いたいのはそこじゃない。
「真剣も何もガチでデートに遅れるよ」
「うほっ、そうだったあああー!」
ゴリラのような雄叫びを上げながら、キッチンに置いてあった、一房のバナナを一本千切って、口に頬張る親父。
どうやら落ち着いて、朝食の食パンを食べる時間もないらしい。
だったら食パンくわえて、家を出ればいいのに……。
「じゃあな、今日の帰りは遅くなる。夕ご飯はみんなで何とかしてな」
「ああ」
玄関で黒い革靴を履きながら、振り向かずに後ろ姿で僕に声をかける親父。
きっと久々のデートで顔がほころんでいるのだろう。
「そうだな。手作り料理でもしたら、女の子たちの株も少しは上がるかも知れんぞ」
「はいはい。そっちも母さんの株を下げないようにね」
「ごもっともだな。行ってくるよ」
「いってらー」
親父がドアを開けたと同時に、爽やかな空気が部屋に流れ込む。
少し前まで暑かったのに、随分と過ごしやすくなった。
徐々に秋の気配が段々と近付いてきたし、気がついたら、恋人たちや家族による、熱い冬がやって来るかな。
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「……さて、僕も支度をするか」
親父を玄関先で見送った後、再び自室に舞い戻った僕は、手持ちの灰色のバッグに、ハンカチや小柄な水筒、ポケットティッシュなどの必要な物を詰め込んでいた。
「なーにしてるの、志貴野くん?」
「その声と姿は秋星か。この通り、今日の僕は忙しい。朝食ならリビングにある食パンで済ませてくれ」
「志貴野オオミカミ、了解でーすw」
「……僕は男だけどね」
秋星でも冗談を言うときがあるんだなと内心で呟き、ふと、モノトーンな黒いトレーナーに付いていたものに目がいく。
「んっ、秋星。お前さん」
「えっ、えっと、何かな……?」
「肩にゴミが付いてる」
「あっ、ありがと……」
僕はいつものように、秋星の肩をはらうと、彼女はちょっと戸惑いながら、僕から視線を外す。
何だろう、兄妹なのに、今さら照れる必要があるのかな?
「うん、どうかしたの。何か、調子悪そうだけど?」
「そ、そう? 今日はあの日だからね」
「うん? 秋分の日ならまだ先だけど?」
「何言ってるのよ、このバカー!」
週の半ばであり、一週間後は祝日。
お赤飯なことは口に出してないし、何もやましいことは言ってないけど?
『ゴツン!』
「ふがっ!?」
秋星が僕の勉強机にあった、化学の教科書を手で素早く丸め、ダイレクトアタックをする。
バリアさえも張れない人間の身にとっては、器用に避けない限り、痛いものだよ。
「用が済んだら、さっさと行きなさいよ。
「くっ、結構いい性格してるな。秋星」
「志貴野くんに言われるまでもないわよ」
「そうだね」
やけに冷たい秋星の対応に、僕はドアの方に向き直って、思っていたことを漏らす。
「あと、
「それは本人に直接言いなさいよ」
「ああ、これからも仲の良い友達としてか」
「ええ、きっと喜ぶと思うわよ」
秋星が僕の背中に、笑顔で答えてるのは分かる。
そう、選んでしまったからには遅いんだ。
僕は約束通り、例の公園で三重咲姉妹の一人に告白に行くのだから……。
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「──バカ、ちょっとは空気読みなさいよね」
砂糖抜きの、いつものインスタントコーヒーが苦く感じる。
一人残された私は、リビングで食パンを口にしながら、あの女好きな彼に対する愚痴を溢していた。
「アタシがアンタのことを一番好きだったんだから……」
秋星だったアタシは、茶色のウィッグを外し、ボサボサになった銀髪を風に晒す。
先ほど、志貴野と会話していた秋星は、美冬の変装した姿だったのだ。
「恋愛ドラマとは違い、どんなに恋い焦がれても、結局は結ばれない恋って辛いものなのね……」
美冬は長い髪をサイドテールに結び直しながら、終わってしまった恋の結末をゆっくりと語る。
誰も聞いていない、涼しげな食卓にて……。
「こんな想いをするなら、恋なんて二度としないわ。アタシはもう一人で生きていく」
「……とも思ったけど、女の子は弱い身だし、どうせ新しい恋でも見つけるんだろうね」
美冬は心に傷を負ったが、その相手が身近な存在で、いつでも会えることに感謝する。
もし相手が遠距離恋愛だったり、自害したりしたら、二度とまともに恋なんてできないかも知れないからだ。
「失恋くらいでめげるな。頑張れ、アタシ」
アタシは湿っぽいまぶたを擦りながら、味気ない食パンをかじる。
ああ、人間ってこうして何度も恋に破れ、運命の人と出会うまで、このキツい経験を積み重ねていくんだ。
別にトーストは焦げてはないけど、コーヒーと同じく、ほろ苦い大人の味がした──。