「──あれは20年ほど前かな。
おじさんが、僕の乗る車椅子をスロープへと移動させながら、昔話を始める。
都会のせいか、星がまばらなベランダに、誰もいないことを確認しながらも……。
どうやら、他人に聞かれてはマズい内容らしい──。
◇◆◇◆
──季節は木枯らしが、肌を刺す真冬。
しんしんと降りしきる雪の中、その男は日中の明るい繁華街から、少し離れた薄暗い雑木林に立っていた。
赤く染まった右手を振り上げるのを止め、ボロボロにされた黒い髪の青年の胸ぐらを握ったままで……。
「……あきら、もう止めてくれ。俺たちは仲間だろ」
「だったらさ、何でこんな裏切り行為みたいなことするんだ?」
茶色いトレンチコート姿のあきらの心は怒りに満ちていた。
その色は深く、まるで色の三原色全てを混ぜた、真っ黒に染まった色のように……。
「ああ、確かに認めるよ。だから……」
「だからって、一夜を共にしたんじゃすまないんだよ!」
殴られてる方の黒いダウンジャケットを着た男が、あっさりと白状すると、胸ぐらを掴んだ銀髪のあきらが声を張り上げる。
感情に任せて、つい乱暴な言葉遣いだったが、正々堂々と交際してるのにネトラレにあったら、どんな男だって文句は言いたくなる。
「何だよ、お前、彼女とはまだだったのか。
黒髪の方がニヤリとしながら、獲物を捕らえた狩人のようなことを口に出すが、それが余計な一言だった。
「たっちゃん。いくら親友でも、それ以上言ったら首をハネるよ」
「オー、こわっ。男のヒステリーというもんか」
あきらの怒声が頭の中まで飛び交う中、たっちゃんと気さくに呼ばれた男は、澄ました表情で彼の扱いに困っていた。
「大体、
「烈火は品が無さすぎなんだよ。俺には合わないよ」
「だけど、お前ら両親が決めた許嫁だったんだろ。こんな真似して」
「うん。ただごとじゃすまないだろうな」
たっちゃんと呼ばれた
二人とも両親は有名な財閥の家系であり、二人の男女はエスカレーター式で、将来座る席すらも決まっていた。
いわゆる政略結婚というものである。
「どうだい、自分が好きだった女を、他の男に奪われた気分は」
「ああ、今すぐにでも、地獄に落としたい気分だよ」
余裕を見せながらも、契を奪った満足げな龍郷の体を押さえ、枯れ草の大地に伏せさせる。
コイツは結婚してるのに、別の女の子と浮気をした。
おまけに深い関係も結んでおり、嫁にバレたら離婚は確定だろう。
「アハハ、あきらだったら、本気で地獄行きにやりかねないかもな。でもさ?」
黒髪の男が目で合図した途端、優勢だったあきらが急に苦しそうに、雪が舞う草むらで片方のひざをつく。
あきらの体にだけ、強烈な負荷でもかかったかのように……。
「……ぐううううー!?」
「この力の差は歴然だよね」
立ち上がった龍郷が、次に目を開いた瞬間、あきらが重みで手を離したと同時に、大地が物凄い地響きを立てて、あきらの体全体が地面にへばりつく。
「……こっ、この見えない力は何だよ、手すらも触れてないじゃないか」
「まあね。実際は思わせてるだけだけど」
あきらが苦痛に顔をしかませながらも、龍郷による攻撃の手が休まることはない。
「人間というのは酷な生き物だよね。理性と理想というものが無ければ、恋人なんて楽に作れるのに」
「……人間を他の動物と一緒にするなよ」
「ヒュー、この状況でまだ自我が保ててんだ。尊敬に値するよ」
冷たい雪の感触が肌に染み渡る。
体温はぐっと下がり、体はとっくの昔に限界を越えている。
このまま虫けらのように凍死するのも時間の問題だった。
「……ぐうう。それで僕をどうするつもりだ……」
「何の。あきらはここで消えてもらう。存在すらもなかったことにね」
「……ぐっ、たっちゃん、いや、龍郷!」
あきらはしもやけで真っ赤になった顔を上げて、龍郷に反論する姿勢を見せる。
「……僕はお前を許さない。例え……、この身が散っても」
「うーん、中々いい響きだね。詩人になった方がいいかもよ」
詩人になっても楽に儲ける職業ではないが、この億劫な社会事情、そんな夢を見させてもいいと思う。
本人の尊重には聞く耳を持たず、妄想するのは自由だからと、龍郷は勝手に解釈していたのだ。
「……龍郷ー、貴様ぁぁぁー!!」
「おおー、怖っ。負け犬は、よく吠えると言うけど、こうまで反応されちゃーな」
あきらが激しく抵抗しても、この術から逃れるすべはない。
ちょっとでも弱みを見せたら、相手の言いなりなのだ。
「はい、さよなら」
「……がはっ!?」
龍郷が指をパチンと鳴らし、あきらの意識を奪う。
あきらは声を失い、再び雪の上に顔を伏せた。
「ふう。やっとおちてくれたか。後は何事もなかったように、記憶も改ざんしてと」
「……改ざんしてどうするつもりだい?」
何事もなかったように、体を起こすあきら。
一方で龍郷は、開いた口が塞がらない。
「なっ、あきら、どうして平気なんだよ!? まさか!?」
「そう、かかったフリをしてたのさ。お前の本音が聞きたくてさ」
予想外の結果に、龍郷は恐怖すらも感じていた。
百発百中と思えてきた催眠術が、身近な一人の男によって破られたからだ。
しかも、何も取り柄がなさそうな平凡な相手に……。
「さあ、その程度の術なら、僕にでもできるよ」
「カアアアアー!!」
あきらが糸で吊った五円玉を揺らし、龍郷に急接近する。
龍郷のように、視線の合図で使うことはできないが、案外、原始的な方法の方が十中八九ハマりやすいとも聞く。
「ぐうっ!?」
「そのまま、これで死んで詫びろ。龍郷」
「……分かった」
あきらがバッグから差し出した、キャンプ用のキッチンバサミを手にした龍郷が、その切っ先を喉元に当てる。
ハサミを持つ手元が震えているのは、心の奥から出てくる抵抗の証。
誰だって死ぬのは怖いし、好き
「──ちょっとやめてよ!」
「なっ、春子?」
「ねえ、友達同士、仲良くなれないものなの?」
そこへ中学生の身なりをした、赤いダッフルコートの春子こと、ハルが龍郷を庇う。
あきらは慌てて、龍郷にかけていた催眠術を解いた。
ハルを危険な目にあわせたくない。
ハサミという刃物を持ってる彼が、何らかの出来事で逆上しかねないからだ。
「ハル、これは違うんだよ。僕は君と結ばれるために」
「そんながんじがらめな行為なんて受け入れられない。ハルは三人で仲良く暮らしていけたらいいんだよ」
「じゃあ、誰のものでも受け入れるのかよ!?」
「えっ、それは誤解だよ。ハルは本当に好きな人しか……うぐっ!?」
ハルの背中に大きく刺さるキッチンバサミ。
決して鋭い刃ではないが、殺傷力に差し支えはない。
ハサミは音を立てて床に転がり、あきらの術から解けた龍郷が拾い上げる。
「あははっ。どうだ、目の前で好きな女がやられるのを見るのは?」
「いいからどけっ!!」
「ぐふっ!?」
龍郷がおもむろに笑い、二度目のハサミを振るう間もあたえずに、大きく龍郷にタックルをするあきら。
そのまま地面で鮮血を流し続ける、仰向けのハルに駆けつける。
「ハルー!!」
「ごめん、余計に……仲違いをさせちゃったね……」
「いいからもう喋るな。今すぐ病院に……」
そう言いかけて、置かれた現状に気付かされる。
こんな田舎の雑木林に来るまで、ハルの体が持ちそうにないこと……おまけに雪で交通の便も悪いことに。
「くっ、これじゃあ、救いようがないじゃないか……」
あきらに待ち受けるのは最悪のシナリオ。
これも龍郷なりの計算の内と言うわけか。
ハルの呼吸が荒くなり、苦しそうに顔を歪めている。
「はい、ワンチャンいただきました。未成年に手を出すほど、俺は馬鹿じゃないぜ。女ってヤツはチョロいね」
「龍郷、お前って男はあああー!!」
あきらは赤く汚れたキッチンバサミを投げ捨てた龍郷を、本気で殴りにかかった。
お前は傷付けてはいけない大切な人を、手にかけてしまったなと……。