『コンコンコン……』
市内の大通りにある、八階建ての総合病院の六階。
その個室部屋の扉をノックする僕。
二回ノックはトイレで行う回数であり、部屋のドアは三回ノックが正しいやり方だ。
「はい、入っていいですよ」
「失礼します」
中からあどけない女の子の返事が返り、僕は静かにドアを開ける。
六畳ほどの窓際に黒い電動ベッドが置かれ、有料TVを観ていた一人の女の子がベッドごと体を起こす。
「あっ、
「ハル、どうして黙ってた?」
「やだなー、ちょっと風邪を拗らしてね。ここで治療受けてるんだけど」
「風邪で長期入院ねえ……」
重い病気なら、必ずある点滴のコードの束などは吊らされてなく、かといって人工呼吸器すらも付けてない。
ひょっとしたら、僕を欺くための仮病かと思い、元からない脳みそをフル回転させる。
「もうマジで怖い顔しないでよ。折角のイケメンが
「何かどさくさに紛れて、失礼なこと言ってない?」
「お兄ちゃんの気のせいじゃないって、きゃあ!?」
僕は腹いせにハルの寝ていた布団を剥ぎ取り、彼女のスレンダーな足元のジャージのズボンを触った。
細くて長いカモシカのハルの足を、ひとさし指でそっとなぞる。
その仕草に、まだ性感帯が未熟なハルがくすぐったく笑う。
「お兄ちゃん、こんな所でそんなの駄目だよ。看護師さんに見つかったら、何て言われるか。それに病院で初体験だなんて、ムードの欠片も……」
「──ハル、この足は何のつもりだ?」
これは夜這いじゃないんだ、落ち着け、僕。
まだ昼下りにも関わらず、窓際に視線を逸らして、大きく深呼吸した僕は、ハルの言葉を無視して本題に入る。
ひざから下がない、ダボダボなハルのズボンを、上から軽くポンポンと優しく叩きながら……。
「えっー、お兄ちゃん、義足も知らないの。今どきの若者にしては遅れてるーw」
「それは見れば分かる。でもどうして両足が無いんだよ?」
ハルのズボンの足をめくると出てくるのは、無機質な骨格でできた木製の義足。
義足にしては、結構お洒落なデザインで、何やら英語の文字が彫ってるけど、どういう意味だろう。
「あの日、ハルはお兄ちゃんとアキちゃんの関係を妬んだの」
顔を赤らめたハルが、ズボンの裾を元に戻して、とある昔話をしてくる。
アキちゃんって、
「ハルがいつものように二人の姿を追って、横断歩道を渡る時に猛スピードの大型トラックが停まらずに迫ってきて……怖くて足がすくんで動けなかった……」
なっ?
ということはあの時、道路に飛び出したのは子猫じゃなかったのか?
秋星が胸に抱いていたのも、足を怪我をした春子を支えるための行為であって……。
恐ろしいね、これが
「そこでハルの人生、終わったんだなと思ってた」
そりゃ、トラックが眼前に突っ込んできたら、誰でも覚悟を決めるよね。
重さ何トンの鉄の固まりだからね。
「そしたらそこに、お兄ちゃんが前に飛び出てきて、こう言ったの」
ここでヒーロー登場というわけか。
危機的状況の恋愛は、燃えやすいというし。
「──人を救うために、自分の命をかけるのも、案外悪くないなって」
ハルが両手を頬に当てながら、僕の目をまじまじと見つめてくる。
女子中学生が潤んだ瞳で色気を使っても、僕にとっては、子供のイタズラのような感じで……いや、もう恋する女のまなざしだよ。
「何だよ、そんなの記憶にないよ。どんだけカッコいいんだよ、僕ってば」
「うん。志貴野お兄ちゃんは、昔から素敵だった」
赤面したハルが両手で顔を覆い、首を左右に振る。
僕って、そんなキラキラ星ルーレットなナルシストキャラだったかな。
神楽坂の妄想劇にも困ったものだね。
「幸いにもハルは両足を失うだけという怪我で、命に別状はなかった。お兄ちゃんが命をかけて、救ってくれた命なんだよ」
なるほどな、事の真相はハルを助けたということか。
その時の記憶が曖昧なのは、
「だからアキちゃんが、長女でもある
三重咲姉妹はハルを本当の姉妹として迎え入れ、今に至るんだね。
「それでリハビリを重ね、義足で不自由なく歩けるようになり、しばらくして、
ここでようやく、ハルの兄である賢司が絡んでくるのか。
アイツって色々と頑張っていたけど、結局、色恋も報われなかったよね。
「神楽坂おじさんはハルをダシに、色々と利用したかったのは分かるの」
「でもおじさんは純粋に、三重咲家のことが大好きだった」
手当たり次第に、女に目をつけても、平等に愛情をか。
日本では浮気問題になるから、海外で暮らす方が向いてそうだね。
「だから神楽坂おじさんを、あまり責めないで……」
責めるも何も、女の子が目の前で涙を流したら、上手い対応ができないよ。
恋愛どころか、女の子とガチで付き合ったことないし、彼女いない暦=高校三年生の年齢(18)だし。
こういう時は優しくハンカチを差し出して、女の子の涙を拭いてあげて……ってそんなレベルが高い陽キャなことできるかー!!
「泣かないでハル、その神楽坂おじさんの口頭のメモによって、ここの総合病院に来れたんだ。本当に悪いヤツが、こんな真似なんてしないよ」
「じゃあ、これまでのハルたちが犯した過ちを許してくれるの?」
おずおずと白いハンカチをハルに渡し、僕は神楽坂おじさんの内なる人間性を知ることになる。
この分じゃ、また早いうちにおじさんも出所かな。
妹の笑顔が見たいなら、もう悪さなんてしないで、真面目に働けよ。
「許すも何も憎かったら、わざわざここまで逢いに来ないよ」
「お兄ちゃん、それって」
「ほら、本当は体調なんて悪くないんだよね。僕らから距離を置いて、
味気のない薄い病院食なんて、胃腸や内臓の弱った病人が食べるものであって、元気バリバリで、ただ塞ぎ込む女の子に与えるものじゃない。
家で作った手作り料理の方が、心も体も満たされるのは、百も承知だ。
「外泊の手続きを済ませて帰ろうよ。僕たち、家族の家にね」
「……お兄ちゃん、ありがとう」
僕がハルの手を引っ張って、ベッドから下ろすと、ハルがポツリと呟いたみたいだけど、ちゃんと聞き取れなかった。
「うん、何か言った?」
「お兄ちゃんは、鈍感なうえに耳も悪い」
ハルが機嫌を損ねて、べーと可愛く小さな舌を出すけど、そんなに僕は女の子の気持ちに疎いのかな。
えっと、女心と秋の空だっけ、それを題材にした恋愛バイブルでも、図書室で探してみようか。
でも恋愛は旬が命だって聞いたことあるし、あれこれ調べて労力を奪われるより、本人に聞いてみた方が早いよね。
「だから何て言ったんだよー?」
「知らないバカ。たまには自分で考えてよね」
「ねえー、ハル様ってばー!?」
ハルが病院の廊下を早足で歩く中、僕は後ろ姿をついていくだけで必死だ。
義足って慣れたら、本当の足のように、飛んだり跳ねたりもできるらしいけど、いざ、目の当たりにすると尊敬の二文字しか湧き出てこない。
周囲の患者さんや、看護師さんに笑われるのを背に、恥ずかしげな僕は、受付に行くハルの姿を見失わないよう、同じく早足となり、急いで追いかけたのだった……。