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第203話 風車

 ベンチに移り、奄美先輩の隣に座って先程買った麦茶を味わっていたときのこと。え? ジンジャーエール? なかったから次点で飲みたいのにしたよ。


「こういうときって彼氏が彼女の座る所にハンカチを置くって聞いたことあるんだけど、実際にあるのかしらね」

 あー、俺もどっかのラブコメで見たことある気がする。

「すみません、気が付かず」

 普通に奄美先輩を座らせちゃったよ。御不満だったんですねと今更ながらにハンカチをポケットから取り出す。

「あ、いや黒山君を責めてるわけじゃなくって。ただホントにそういうのあるのかちょっと気になっただけ」

 奄美先輩が顔の前で手を振って俺の動作を止めに入った。まあもう座っちゃったし先輩がそう言うならいいか。


「榊だったらやりそうですね」

 あの女性の扱いに対して恐ろしく長けた王子なら恋人相手にはその手のエスコートを如才なくこなすように思う。その仕草もあの美形ならさぞかしサマになることだろう。俺と言えばそんなカップルの視界の端に入るかどうかギリギリの場所で一人スマホを眺めてる通行人Aの方が似合ってるだろう。そんな人生を送りたい。

「そうかもね。でも、そういうのない方が私には気が楽かも」

 奄美先輩は手に持ったミルクティーを一口飲んだ。


「さて、これからどこ行くか決めましょうか」

「そうですね。先輩はどっか行きたい所はありますか」

「そうね。やっぱあの風車ふうしゃかしら」

「あー、この公園の名所ですもんね」

 公園に面した湖の近くの芝の辺りに堂々とそびえているあの建物。ここでデートするならまず巡ることになるでしょうね。全く頭になかったよ。

「黒山君はどう? 希望があれば言ってみて」

 そんなの即解散からの帰宅一択です。

 なんて言えるわけもなく、さりとてそれ以外に希望なんてあるはずもなく

「自分は特に」

 となるのは必然的だった。

「となると、風車の後は適当に園内を一通り巡って、その後食事かしらね」

「ですね」

 俺も特に異論はない。かくしてスケジュールが決まった。要は風車以外大雑把なプランだぜ。


 そろそろ出発するか、と思っていると

「……」

 奄美先輩がミルクティーを横に置いて膝に手を置いたままただ前を見ていた。じっと何かを見つめているようにも思われず、呆けた様子に映った。

「どうしましたか」

「ああゴメン。そろそろ大学受験の勉強も本格的にしないと、て思っちゃって」

 奄美先輩が取り繕うかのように笑顔を見せた。

「こうやって遊べるのもいつまでできるのかしら」

 ああ、奄美先輩にとってはそこが気になるのか。


 俺自身も今年が受験生ではないからその気持ちは正直よくわからないが、大学受験がその後の人生にも相当な影響を及ぼす大事な転機であることぐらいはさすがに認識している。

 受験生の中には三年に上がって間もなく、場合によっては二年のときから大学受験に向けた勉強を既に始めている人もいるだろう。

 奄美先輩がそうしたという話もなければ特にそういう様子も普段からは見られないが、もし勉強が本格化したら遊ぶ時間が当然減るだけに、それが多少気にはなってくるのだろう。結構人生をエンジョイしたいタイプなんですね、奄美先輩。


 ……あれ? ということは近い内に奄美先輩の今の作戦会議からは解放されるのか。

 受験勉強に時間を割かなきゃいけないのに今の王子と結ばれるためにどーたらこーたらなんて色恋にうつつを抜かすなんてできるわけもない。葵の手前もあるし、受験勉強時にそんなことをしていると知れば奄美先輩の御両親も止めに入るだろう。

 受験勉強は遅くとも夏休みに入った辺りから始めるだろうし、そうなれば奄美先輩と毎日顔を突き合わせる義務も後1~2か月ぐらいで自然消滅するのでは……?

 おお、何でかわからないが急にやる気が出てきたぞ。


「……なら今日は目一杯楽しみますか」

 俺はベンチから立ち上がった。

「え? 黒山君?」

「さて、そろそろ行こうと思ってますけど先輩はよろしいですか?」

「え、ええ。大丈夫よ」

 奄美先輩が横に置いたミルクティーのボトルをバッグにしまい、続けて立ち上がる。

 さっきよりも足取りが軽くなった俺は奄美先輩に歩調を合わせつつ、風車の方へ歩いていった。


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