奄美先輩の誕生日当日。
まだまだ厳しい暑さの続くなか、俺は奄美家にやって来ていた。
インターホンを押すと、聞き慣れた声が返事をしてきた。
「こんにちは胡星先輩、今開けますね!」
インターホンのすぐ上に付いているカメラから、相手は俺のことを即座に把握したらしい。
少しして玄関の扉が開いた。
出迎えたのは葵だった。
プレゼント選びのときと対して変わらない、半袖と短パンのファッションでありこれまた涼しそうだった。
「おう、邪魔するぞ」
道中差してきた日傘を閉じて、奄美家の玄関の扉をくぐる。外の暑さが嘘のように、ひんやりとした空気が身を包んだ。
「いやー、お暑いなかお疲れ様です」
葵がタオルを俺に差し出してきた。
「ん、それは?」
「これで汗を拭いてください」
運動部のマネージャーのような配慮だな。運動部入ったことないから勝手な想像だけど。
しかし、ありがたい。
手持ちのタオルも既に汗で濡れていた。
でも念のため確認しておくか。
「使用料はいくらだ?」
「お金なんて取りませんよ、失礼な」
葵がさらにグイグイと俺の前にタオルを押し付けてきた。
「そうか、それならありがたく」
と葵からタオルを拭き取って顔や腕に当てる。
あらかじめ冷蔵庫に入れておいたのだろうか。少々冷たく、そして水で湿っており拭いた後が爽やかに涼しくなっていった。
「気が利くな。ありがとよ」
「いえいえ」
葵は俺の方を見て、店員が客に向けるような営業スマイルを浮かべていた。
「これ、ゆすぐところは借りれるか?」
さすがに自分の汗の染みたタオルをそのまま他人に渡すのは気が引けて、葵に質問した。
「え? いやいいですよ。不要になったら私の方で預かります」
「いや、汚いだろうに」
「大丈夫ですよ~。もう何度も手を繋いだ仲じゃないですかー」
やだなー、と葵が手を話し好きのオバチャンのように上下にパタパタさせる。
「俺の汗に毒が仕込んであったとしてもか?」
「どんな生物なんですか、貴方は」
「ちょっと特殊な訓練をしていてな」
「どんな訓練したらそれができるんですか。あと、みずからの汗に毒を入れるって用途が不明過ぎます」
「いや俺も詳しいことは聞いてないんだ」
「嘘なのはわかってますけどせめてもっと設定詰めましょうよ」
葵は俺からタオルを回収し、他の部屋へ持っていった。
「そうそう先輩、お茶飲みますか?」
「あるのか? それだったらありがたく頂戴したいが」
「私の飲みかけのペットボトルにはありますよ」
何をしれっと言ってるんだろう、この後輩は。
「あれー、急に黙っちゃって。照れてます?」
「いや、お前の感性どうなってるんだろうと思ってた」
「非常識な人みたいな扱い方やめてくれません? ちょっとした冗談だったのに」
そうか。
「まあ先輩がどうしてもって言うなら仕方なく飲ませてあげなくもなかったですが」
「安心しろ、そんな非常識なマネはしないから」
「先輩鏡見てきたらどうですか? お貸ししますよ」
どういう意味かは気になったが、これ以上は不毛になりそうだったので話題を変えることにした。
「そう言えば、親御さんはいないのか?」
家に上がってからも葵以外に人がいる気配がしない。二階で寝てるとかか?
「父はお仕事で、母は今買い物に行ってます」
「ほう」
本日8月10日は土曜なのだが、この調子だと奄美父は土曜出勤が常らしい。
「あれ、ひょっとして何かいかがわしいこと考えてます?」
春野と俺のやり取りを冷やかす日高ばりに葵がニヤける。
「何のことかわからんが。あとお前鼻毛出てるぞ」
「え⁉」
葵が急に鼻を手で隠す。ニヤけたツラが一瞬にして崩壊していた。
「冗談だ」
「ええ⁉」
思わず口角が上がってしまった。
葵がこんな子供騙しにあっさり引っ掛かるのを見たのは初めてだったが、ここまで痛快なものだったとは。
「……先輩、冗談がお上手なんですね」
「お前も思ってたより素直な性格だな」
葵がこちらを睨んでくる。
いや本当に意外だったぞ。せいぜい話を切り替えるぐらいの意図だったんだが、ああもドッキリのターゲットみたいな素晴らしいリアクションをしてくれるなんて思ってなかったな。いやー面白いモンが見れた見れた。
「まあ、いいですよ。とりあえず姉の部屋に行きますか」
おっと、今日は奄美先輩の誕生日が主題だったな。
「おう、そうだな」
「あ、そうそう先輩」
ん? 何だ? と思っていたら、
「私、やられたことは放っておかない性格なんで、よろしくお願いしますね」
葵が空恐ろしいことを言ってくる。何? 俺後日に仕返しで抹殺されちゃうの? 女子に鼻毛出てるって言ったことが原因で命を断たれる人とか世界で初めてじゃないかな。無念にも程がある死に方だわ。
「いやお前鼻毛ぐらいで大袈裟な」
「そのワード使うの今後禁止です」
「えー……」
何でお前にそんな権限があるんだ。やっぱ俺コイツ(と加賀見)に人権無視されてないかな。
あとそれだと本当にお前の鼻から毛が挨拶してるような状況でも指摘できなくなるぞ。もっとも、本当に出てたらあえて告げずに本人がいつ気付くか観察してたと思うが。