私は何をしているのかしら?
ああ、意識が保てない。
沈んでいく体を観察する中、
―因子様!
―因子様!
誰かが私の名を呼んでいる。
「う~ん」
日差しの温かさを感じて、体を起こすと書物が頬に張り付いていた。
いけない。お父上様の
「うふふ。また、徹夜をされたの?」
春風のように優しげな声に左手を見上げれば、青色の着物がよく似合う同年代の少女が笑っていた。
「浪子様?」
もう、会う事は叶わないはずの親友の姿に鼓動が早くなっていく。
どうして?
貴女は…。
亡くなったという言葉が紡げなくて、唇だけが震えていく。
「まだ、夢を見てらっしゃるの?」
浪子様が静かに腰を下ろした。
その動作一つが美しい。
そっか。
あれは、現実ではなかったのね。
浪子様があんな惨い死に方をされるはずないもの。
あれ?どんな最後だったかしら?
思い出せない。
まあ、いいか。所詮、夢だもの。
「そうしていると、宰相の君のようですわね」
「あの紫式部に美しいと称されていた女房様の事?」
「そうですわ。艶やかな黒髪を垂らし、文机に突っ伏す姿はまさに物語の姫君のよう…」
「それって、紫式部日記の一説、そのままですわ」
「さすが、因子様には分かってしまいますのね」
「ごめんなさい。別に馬鹿にしたつもりは…」
「謝る事なんてありませんわ。因子様のおっしゃる通りですもの」
そうやって、何食わぬ顔で会話を続けてくれる友人は貴女だけよ。
私はいつも、余計な一言のせいで失敗してしまう。
幼いころから、白黒つかない事が嫌いだ。そして、この胸のうちに湧き上がる思いは止まる事を知らない川のように口から音になって飛び出してくる。
以前、ある歌会に呼ばれた際に
別に放っておいてもよかったのに…。
私は彼女の不正を指摘したのだ。それを快く思わなかったのだろう。
「一族に定家様を始め、有名な歌人を輩出されているからって生意気な方よね」
「公家の姫君なら、慎ましく、口を閉じておくべきでしょうに…」
「あれでは、お父上様の足も引っ張るんじゃないかしら?」
あの一見以降、どこへ行っても、誰かが囁く噂話の登場人物にさせられた。
それでも、訂正も謝る気もない。
だって、歌はその時代に生きた人々の心を写す大切な記憶だとお父上様はずっとおっしゃられていたから。それをあの姫君は土足で踏み荒らしていた。
せめて、誰の歌なのか?
それを示してから披露すればよかったのに。
あんな、姑息な真似は絶対許されない。
だから、仲間外れにされようが気にしない。
私の心は過去に綴られた和歌達が慰めてくれるもの。
いえ、それでも本当は傷ついていた。
私も他の姫君たちのように空気を読めたらよかったのに…。
けれど、涙で枕を濡らさずにいられたのは浪子様がいるから。
私がどんなに醜態を晒そうともこうして、訪ねてきてくださるのだから。
良い方だわ。まるで、天女のよう。
一条天皇の中宮藤原彰子様にお仕えされた宰相の君こと
「あの方に例えられるのは
艶やかな黒髪や滑り落ちるような肌、血色のよい唇を着物の裾で隠す浪子様のすべてから目が離せないんだもの。
「うふふ。壊してしまわれたの?」
「そうなの。しおり代わりに使っていたのがいけなかったのかも。足で踏んずけてしまって…」
「なら、私のを貸してあげましょうか?」
「ええっ!それはさすがに…」
「新しいのが来るまでですわ」
浪子様は懐から鮮やかな月が描かれた檜扇を取り出した。
「良いでしょう。お父上様に買ってもらったんですわ」
「昌家様は見立てがよろしいですものね。私のお父上様も見習って欲しいぐらいだわ」
「まあ、天下の定家様に向かって、そのように言えるのは因子様ぐらいでしょうね」
檜扇で口元を隠す浪子様に月がかかる。
その檜扇は…。
月を眺めると涙があふれてきた。
知っている。
「その檜扇は私も持ってますのよ」
指先が冷たくなっていく。
自身の胸元に隠された檜扇の感触が夢だと思っていた悲劇が頭を打ち鳴らす。
「以前も貸していただきましたわね」
目の前の浪子様は何も答えず、微笑んでいた。
これはかつて、経験した記憶。
たしか、このすぐ後だった。
浪子様が念仏会に。
あの男に熱を上げ出したのは…。
「住蘭様。素敵だったわ。一度でいいから、あの腕に抱かれてみたい」
「おやめなさいよ。相手は僧でらっしゃるのでしょう?」
「だから、良いんですわ。因子様も一緒に参りましょう。そうすれば、あの方の良さが分かりますわ」
正直、気乗りはしなかったけれど、浪子様が好きだというものに興味は惹かれた。
確かに念仏会は凄く刺激的で、見知らぬ世界を覗けるようで楽しかった。
会に出た後は新鮮な気持ちで和歌を読み漁った。
それはたぶん、浪子様が輝いておられたから。
ああ、彼女は恋をしているのだと気づいたから。
そして、私の中で大きくなるこの気持ちの意味も…。
正直、戸惑ったわ。
住蘭に限らず、いつか、彼女は誰かの者になるのだと分かってしまったから。
その頃になっても、私は浪子様の親友でいられるのか不安だった。
だから、やはり、救いを求めたのだ。
多くの者が住蘭に縋りつく中、私が追い求めたのは和歌だっただけ。
そこには多くの報われぬ想いに沢山溢れていたから。
”かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを”
せめて、これ程までにお慕いしているのだと…それだけでもあなたに言いたいの。けれど、言えません。伊吹山のさしも草ではないけれど、これほどまでとはご存知ないでしょうね。燃えるこの想いは…。
後拾遺和歌集に収められた
そうか。知られなくてもいいんだわ。
かつて、盗作を指摘した姫君が詠まれた歌に私が救われるなんて…。
これも運命なのかも。そんな風に自分を納得させたのに…。
私は貴女も救えなかった。みすみす、あの男に奪われて、命を…。
ああ、夢でもいいから、貴女に会いたいと思ったのに…。
今はそれもつらい。
――因子様!
――因子様!
また、誰かが私を呼ぶ声が聞こえてくる。
浪子様は着物を翻し、渡殿に走り出た。
「浪子様!」
待って。捕まえなくては…。
私の想い人。
けれど、その手は彼女の体を通り抜け、はじけ飛んだ。
落ちるのは懐に隠し持った檜扇。半分だけ開いたそこには欠けた月が描かれていた。
私には持つ資格のない浪子様の形見。
「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし
せっかく久しぶりに逢えたのに、それが貴女だと分かるかどうかのわずかな間にあわただしく帰ってしまわれたのね。まるで雲間にさっと隠れてしまう夜半の月のように。
さっきまで確かに会話をしていた親友の残り香を探したけれど、無理だった。
――因子様!
――因子様!
頭の中で誰かの声がさらに大きくなっていく。
この声は一体…。
「因子様!」
そうだ。この声は…。
「貞暁様!」
私の友になっても良いと言ってくださった僧様の声に返事を返した。
そうよ。浪子様の思い出に浸っている場合ではない。
せめて、これだけはあの方のお父上様に返さなくてはならないのだから。
因子は宝物を扱うように浪子の檜扇を抱きしめた。
その視界に現れたのは両耳をおさえ、しゃがみ込む貞暁と仁王立ちで出迎える義宗という均衡していない二人であった。