痩せ焦げ、生気のない青白い顔で眠る男性を因子様は抱え込んだ。
昌家様?
浪子様のお父上様の名。
この方が?
そこで貞暁は気づいた。
自分達が今まさに立っている場所は藤原昌家様の屋敷の庭先だと言う事に…。
目的地と術発動の中心点が同じだったか。
心配そうに声をかける因子様とは異なり、貞暁は男性を凝視した。
間違いない。この方が外法術を発動させた張本人。
人一倍強い瘴気が昌家様の周囲に集まり、肉体を穢している。
「因子様、離れてください。不要に近づけば…」
貞暁は昌家の背中に手を回した。
「昌家様は生きておられるのですか?」
「今は…。ですが、危険な状況です。生気をほとんど悪鬼に持っていかれていますから」
「それはつまり、外法術を施したのは昌家様なのですね」
「なぜ、そう思われるので?」
「貞暁様がおっしゃられたのですよ。この術を施した方は浪子様に強い思い入れがあると…」
「そうですね。当たり前の事を聞き返しました」
「お願いです。昌家様をお助けください。貞暁様!」
その嘆願に返す術は俺にあるのか?
外法術は解除が難しい。特にこの方のように素養のない人間ならなおさら。
願いすら叶わず、死に絶える者がほとんどだと聞いている。
俺も外法術をこの目で見たのは初めてだから、断言はできないがな。
そもそも、なぜ、昌家様が外法術のやり方など知っていたんだ?
平安の世ならまだ分かるが、今の世では指南書の殆ども燃やされたはずだというのに。
いやいや、理由を考えるのは後だ。
せめて、この方の周りに漂う負の気をどうにかしなければ。
そうすれば、時間稼ぎぐらいはできるかも。
昌家様の体の中で最も強い瘴気に手を添えようとした。
――パチンッ!
鈍い痛みが指先に走り、思わず表情をゆがめた。
「貞暁様?」
「大丈夫です」
俺の鬼力を弾いた。
クソッ!
元は陰陽術から派生した能力だからか?
その素材は悪疫がらみだというのに…。
まだ、若干しびれが残っている。
下手に触れたら俺の方が危ない。
外法術で浄化されるとか、そんな展開ごめんだぞ。
もちろん悪鬼の一部にされるのも嫌だ。
だが、因子様は平気なのか?
昌家様の瘴気に呑まれている様子もない。
「おい!なんか、女達がおかしいぞ」
義宗がいる事、忘れてた。
この間も絶賛、戦ってくれていたんだな。
――ああああっ!
義宗が振るう剣の上に足を乗せた、浪子様の一体は奇声を上げた。
それを合図とするかのように他の浪子様達が一斉に集合し、抱き合った。
――アアッ!
「官能的だな」
交り合う浪子様達を眺めながら、義宗はつぶやいた。
マジかよ。こうなってくるとただの変態じゃねえ。
ますます、お前の感性分からん。
「その女達が浪子様の美しさの半分も再現できているとお思いですか?冗談じゃない!それ以上、妙な目で見たら、後で殺してやりますから!」
浪子様は懐に隠していた書物を義宗に投げつけた。
「痛ってぇ!落ち着けよ。あれ、姫さんの友達じゃねえだろ」
「お姿は浪子様なんだから、間違ってないですわ!」
「落ち着いてください。おじさんに悪気はないですよ。いや、なくても問題ですがね」
因子様の怒りはごもっともである。
だからといって、その言葉は姫君が言うには中々、恐ろしい。
「ああ、悪かった。別に深い意味はない!」
「浪子様に魅力がないとおっしゃりたいの?」
「どっちにしても怒るのかよ。女心って分からん」
「貴方に分かってもらう必要はありません」
この切羽詰まった状況でも、口喧嘩するのかよ。
すげえな。
貞暁が感心する中、浪子様達は一つの塊へと姿を変えていく。
心持ち強大化している気も…。
本格的に悪鬼が誕生し始めている!
しかも、かなり強い。
あんなの相手にしたくねえ。
悠長な事は言っていられないか。
やはり、昌家様を殺して外法術の力を弱めるしか…。
だが、俺は人殺しではないぞ。
しかし、やらなければ…。
被害がもっと大きく…。
自然と腕が震えていく。
結局、俺も頼朝と変わらないのか?
「昌家様!しっかりなさってください!」
昌家様の手を握りしめ、語りかける因子様の声が通り抜けていく。
「ご自身の娘のお姿をあのように弄ぶなんて。浪子様が知ったら、ひどく悲しまれますわ。浪子様はあんな醜くない。もっと綺麗で…。優しくて…。私は忘れたくないの。それなのにあんな…あんなの見せられたら私…私だって!」
眠る昌家様にすがるように涙を流す因子様に胸が詰まる。
本当に他に方法はないのか?
ああ、自分がひどく惨めになる。
生暖かい風が砂埃を起こし、先ほど、因子様が投げた書物がはためく。
新古今和歌集か?
「ああ、
虚ろな目で自身の書物を眺める因子様は口を震わせた。
書物には和歌が記されている。
「忘れじの行く末までは 難ければ今日を限りの 命ともがな」
“いつまでも忘れない”という言葉が、遠い将来まで変わらないというのは難しいのでしょう。だから、その言葉を聞いた今日を限りに命が尽きてしまえばいいのに。
一条天皇の中宮、定子様の母君が詠まれた歌か。
「ううっ!」
昌家様の周囲を漂っていた瘴気が弱まっている。
因子様が浄化したのか?
――世の中に さらぬ別れの なくもがな 千代もとなげく 人の子のため
歌?
男性の声が頭の中で流れてきた。
「昌家様!」
世の中には死の別れがなければよいのに。親が千年も生きてほしいと祈る子どものために…。
これは親が子を想う言葉。
昌家様の悲しみか。
「そうですわね。ええ~。昌家様ほど、浪子様を想っておられる方はおられません」
さらに瘴気が小さくなっている。
これなら、外法術に干渉できるやも。
貞暁は再び、昌家の胸元に手を添えた。
「ふう~!」
昌家様の体内に組み込まれた外法術の核を探す。
どこだ。
暗闇ばかりで見当たらない。
やはり、無理か。
しかし、脳に突き刺さる柔らかい触手の気配を認識する。
あった。
――イァッ!
貞暁は心を込めて、鬼言をつぶやいた。
その瞬間、周囲の空気が弾け、澄み切っていく。
「はああっ!」
義宗はすでに浪子様とは似ても似つかぬ怪物へと成長する悪鬼に剣を突き立てた。
「ぎゃああっ!」
その場で倒れた悪鬼は砂へと変わっていく。
と同時に雲に覆われていた月は消え、日差しが差し込んだのであった。