「アレクシス、今日は授業をサボったんだってな」
低く冷ややかな声が、ひっそりと張り詰めた書斎の空気を揺るがす。
壁を埋め尽くす重厚な本棚、中央には厳かな存在感を放つ大きな机。
まるでこの空間全体が、父と子の間に微妙な緊張を生み出しているかのようだった。
アレクシスは、革張りのソファの上で小さな体を沈めたまま、わずかに顔を上げる。
その瞳は十歳にしては鋭い光を宿していて、言うなれば年齢不相応の反抗心が覗いていた。
「……はい」
幼い声音で短くそう答えると、父であるエドガーは手元の書類から視線を外さないまま、さらに問いかけた。
「理由を聞こうか」
アレクシスはため息をつき、足の届かない床に向けて足先をぶらぶら揺らす。
短い指で前髪をかき上げながら、視線はどこか遠くの天井へ。
「窓から母上が見えたから」
言葉少なに吐き出された一言に、エドガーの手がかすかに止まる。
しかしすぐに彼は冷静を取り戻したかのように、淡々と続けた。
「ソフィアが……何か私のことを言っていたのか?」
アレクシスは、わずかに口角を上げる。
子うさぎが微笑むようでもあり、同時にどこか挑発的でもある、不思議な笑みだった。
「父上? さすがにそれは自意識過剰ってやつですよ」
小さな肩をすくめてみせながら、まるで独り言のように言葉を付け足す。
「確かに母上は父上のことをかなり好きみたいですけど……四六時中考えてるわけでもないと思いますけどね。」
その瞬間、エドガーは手元の書類をゆっくり閉じ、机の向こうから立ち上がった。
まるで劇の幕が上がるかのような動作には、どこか厳粛さすら漂っている。
「いや、ソフィアは……私が護衛騎士をつけたら、ずいぶん取り乱していてな。私が配慮を欠いていたんだろう。もしかしたら、私と離れることが不安で仕方ないのかもしれない」
エドガーの低い声には、わずかな憂いが混じりはじめる。
それを見たアレクシスは、しれっとした表情のまま心の中で小さくため息をついた。
(……父上って、思った以上にナルシストなんだな)
だが、それも決して悪い方向ばかりではなかった。
その性格ゆえに、母上――ソフィアが見せていた別の顔を掘り起こすきっかけにもなったのだから。
護衛騎士の配置、闇の情報網やスパイを駆使しての徹底的な調査……。
父上は、伯爵家の裏事情から母上の行動まで、余すところなく洗い出している。
そして明るみになったのは、母上が「伯爵家の道具」として、敢えて周囲には“悪役”を演じてきたという事実。
「ドレスを選ぶのに何時間もかけてただとか、窓からこっそり父上の姿を追ってただとか……あ、ハンカチを落として、拾ったあとに匂いを嗅いでいたなんて話もありましたね」
あくまでさりげなく独り言のように呟くアレクシス。
するとエドガーの頬はわずかに紅潮し、切なそうに目を伏せる。
「……ソフィア。こんなにも私を想っていたのか……まったく、すまなかった」
その表情を見ながら、アレクシスは改めて思う。
(父上って、本当に単純だよな)
けれど、その“単純さ”が今は好都合なのかもしれない。
何より――最近の母上は、本当に少し“おかしい”としか言いようのない変化を見せている。
かつては冷ややかで、まるで操り人形のように心を感じさせなかったはずなのに、いつの間にか涙を見せたり、笑ったり……。
その姿を思い返すと、胸がざわりと落ち着かない。
なぜか息が詰まるような、甘酸っぱいような感覚さえあるのだ。
(母上はまるで、別人みたいだ。
だけど……なんだか可愛くて、愛おしい)
そんな感情が心を支配している自分が少し怖いような、不思議な気持ち。
だが、このまま母上を放置するわけにはいかない――メイドのリナの話では、母上がこっそり窓から身を投げようとすることが何度かあったらしいのだ。
(昔から、ずっとそうだったのかもしれない。
僕も父上も、母上の苦しみを知ろうともしなかったんだ。)
アレクシスは革張りのソファから小さな身体を起こし、そっと息を整える。
「……ごめんね、母上」
誰にも聞こえないように、そう呟く。
血のつながりはないとはいえ、大切な人をずっと見過ごしてきたことを思えば、胸が痛んで仕方ない。
だからこそ、決めたのだ。
――今度こそ、どんなことがあっても母上を守り抜くと。
(そうだ。もし母上が危険に晒されるなら、いっそ僕の部屋に閉じ込めてしまうのも手かもしれない。二人きりで暮らせば、あんな外の世界に怯えることもない)
ただ、そこには障害がひとつ。
――父上の存在が、やけに邪魔になりそうだ。
少しだけ眉をひそめたアレクシスは、それでもすぐに表情を緩める。
(まぁ、急ぐ必要はない。
母上は僕だけのものだから……。いつか必ず、誰にも渡さない)
ゆっくりと立ち上がった彼は、もう一度父を横目に見る。
エドガーは再び書類に目を落としているようだが、その様子はどこか浮足立っている。
アレクシスは小さく笑みを漏らし、心の中で思うのだった。
(離さないよ、母上。どんな困難があっても、僕が必ず守ってあげるから)
そんな彼の決意など露知らず――
庭の窓からこの書斎を見上げていたソフィアの口元には、穏やかな笑みを浮かべていた。