ああ、ついにこの時が来てしまった……。
虚空を見つめる私の胸には、ひたひたと絶望が押し寄せていた。
――予定よりも早く“それ”は訪れ、私は逃げ場を失った。
この運命が変えられないことは、いやというほどわかっている。
どれだけ違う道を選ぼうが、結末は同じ。
だからこそ、どうしようもない虚無感だけが心に巣食っているのだ。
「母上……どうかなさったのですか?」
不意に小さな声がして、ハッと顔を上げる。
扉がわずかに開いていて、そこにはアレクシスが立っていた。
その幼い体はまるで私を守るかのように、そっとこちらへ近づいてくる。
「……何でもないわ。」
そう答えようとするが、言葉が喉の奥で絡まったように出てこない。
アレクシスは暖かな手で私の冷え切った腕を包み込んでくれた。
ほんのわずかな体温が、胸の奥でじわりと広がっていくのを感じてしまう。
「顔色が真っ青ですよ。それに、こんなに体が冷たくて……」
不安そうに見つめるアレクシスの瞳が眩しいほどに優しく、刺さるようにまっすぐ。
その気遣いが痛ましく、でも同時に愛おしさが込み上げてきて、胸が苦しくなる。
「ソフィア」
もう一つの声が背後から響いた。その声に振り返ると、そこにはエドガーが焦った面持ちで立っている。
いつもの冷静沈着な風貌とは異なり、瞳には私を心底案じる色が浮かんでいた。
「どうしたんだ?」
そう言いながら、エドガーが私の顔を覗き込む。どこか労わりの混ざる、その低く落ち着いた声。
私は意を決して、唇を開いた。どう取り繕っても、どうにもならないとわかっているから。
「……私の父が、この公爵家を訪問したいそうなの。」
その瞬間、空気が張り詰め、部屋全体が暗く沈んでいくように感じられた。
ブラックソーン伯爵――私の父。
その名前を口にするだけで、最悪の未来がじわじわと現実に迫ってくるような恐ろしさがあった。
「伯爵が、ここを訪れると?……」
エドガーの声が低く響き、瞳には険しい光が宿る。
父の目的は明白。公爵家を支配するために、私にエドガーの命を奪わせようとするはずだ。
役目を終えれば、一ヶ月後に私は処刑。
どの道を選んでも、私に未来など存在しない――。
そんな考えが頭を駆け巡ると、息が詰まりそうになる。
父の手先が城内に紛れ込んでいるに違いない。
ほんの一歩でも踏み外したら、すべてが終わる。
この一家もろとも、破滅する可能性だってあるのだ。
頭の中で「落ち着け」と繰り返すが、心は狂乱の嵐に飲まれそうになる。
――そのとき。
小さなものがぎゅっと、私の手を握りしめた。
見ると、アレクシスが懸命に私の手を包んでくれている。
「母上、大丈夫だよ。」
幼いながらも迷いのない瞳が、鋭く真っ直ぐ私を見つめる。
まるで、失望に沈む私を奮い立たせるかのような決意に満ちていた。
「……ありがとう、アレクシス。」
震える声でそう返し、私は彼の手を握り返す。
隣でエドガーが私を見つめ、低くけれどはっきりした調子で言葉を放つ。
「ソフィア、君は一人じゃない。私たちがいる限り、ブラックソーン伯爵には指一本触れさせない。」
力強い意志がこもった瞳。
その言葉に、私はかすかに震える息を吸い直し、静かに頷いた。
“この運命は変えられない”――そう思っていたけれど、もしかしたら、少しだけ違う未来があるのかもしれない。
この温かい手と、まっすぐな瞳がそう信じさせてくれる気がした。