結局、エレノアは
執務室に戻って、気持ち良さそうに寝ているナイトを起こし──「んー」と伸びをしながら夢現に「行こうか」と告げる彼に連れられて、エレノアがやってきたのは皇都ルーチェの街中だった。
「とりあえず、今日は街中を巡回してみようか」
「警備任務……ですね?」
エレノアが確認すると、ナイトは笑みを浮かべて軽く肩をすくめた。
「まあ、警備のようなもの。うちは主に他の隊がやりたがらない雑務が回ってくるんだけど……配属初日だし、のんびり行こう」
そう言いつつ、彼は武器を携行していないようだ。
「隊長、武器も持たずに散歩気分ですか?」
「フットワークは軽いほうがいいだろう? 何かあったら、君が守ってくれると期待してるよ」
悪戯っぽく笑うナイトに、エレノアは頭が痛くなったが──言い返す気力もない。
「……了解です」
結局、エレノアは渋々頷いて、彼の後を追った。
ルーチェは皇族の住まう〝アウローラ城〟の麓に作られた城下町だ。
市壁の内側に様式美を追求したレンガ造りの街並みが広がり、街の中心には清涼な川が流れている。
そして、大魔術師が建国した皇国は、〝魔術〟を要とする国だ。
要所にその技術の粋が詰まった〝
(ここへ戻るのは士官学校を卒業して以来……数ヶ月ぶりか)
久方ぶりに訪れた皇都は、子ども達が川沿いを笑いながら駆け抜け、商人の威勢の良い呼び込みが道端で響く。
戦地から遠く離れたこの地には、とても活気に満ちあふれている。
(……平和だな。戦争をしているなんて、嘘みたいに)
最前線で日々血を流す兵たちの姿が頭を過り、エレノアは人々の賑わう光景に複雑な思いを抱く。
王国との戦いは、終わる兆しが見えない。
これまでも、これからも、領土問題、文化や宗教観念の違いから、争いは幾度となく繰り返されていくのだろう。
(こんなところで腐るつもりはない。前線へ戻る方法を考えないと……)
そんなことを思っていると、通りの露店から声がかかる。
「いらっしゃい! どうだい、お姉さん!」
果物を売る太っちょの商人が大振りのリンゴを高々と掲げていた。
「甘くて美味しいよ! 軍人さん、ご苦労様だね!」
エレノアは戸惑いつつも会釈を返すが、ナイトが軽快に手を振って笑って応じる。
露店主は楽しげに笑い、「また今度ね」と見送った。
そういうちょっとしたやりとりが、前線にはない温かさを映すように感じられる。
(……あの戦場と、あまりにかけ離れた光景だな)
取り残されるような感覚を振り払うように、エレノアは川沿いの橋を渡りながら思考を巡らせる。
(今もどこかで誰かが戦っている。それなのに私は……。お父様の仇を討ち、リヒトを守るって誓ったのに)
ふと目を向けた先には、仲睦まじく手を繋いで歩く少女と母親らしき女性の姿があった。
それが、父が生きていた頃の自分と母に重なって見えて、胸が痛む。
エレノアはそっと首から下げている指輪に触れた。
(……お母様……)
エレノアの頭に浮かぶのは、死の間際で「ごめんなさい」と繰り返す母の姿。
貴族である父ブライト・リュミエールと恋に落ち、リュミエール家に迎えられた母ルチア。
しかし、出自の知れぬ母はリュミエール家の人々に疎まれ、父と駆け落ちして辿り着いたのが辺境のシュトラールだった。
(あの日々は、本当に幸せだった。小さな家で質素な暮らしだったけど、お母様はいつも笑顔だったし、お父様もそんなお母様を見て表情が柔らいでいた。リヒトが生まれて、これからも……あのままでいられると思ったのに)
けれど、そのシュトラールはもう存在しない。
(あの日、王国軍の襲撃を受けて……。お父様は私達を守る為に──)
焼け落ちた家、赤く染まる大地。
王国という存在に奪われ、殺され、壊された。
その情景を目の当たりにして、エレノアの胸の内にどす黒い感情が渦巻いた。
(王国を憎んだ。何もできない自分が許せなかった……!)
父を亡くして以来、心身を蝕まれ憔悴してゆく母に対しても、エレノアは無力であった。
ただ、やり場のない怒りを王国へ向けて吐き出すことしか出来ず──そんな自分を、母は見ていられなかったのだろう。
(……お母様は「すべて私のせいだわ」と自分を責めて、涙ながらに語ってくれた。お母様──ルチア・シエロ・サングリアが歩んだ半生を)
その時に、エレノアは知った。
自分に流れる血統の、
かくして、すべてを知った時、エレノアの心は認めたくない自分の出自への嫌悪感と、王国への強烈な復讐心に囚われてしまった。
(お母様の幸せを奪い、苦しめた元凶は、私だ。それなのに……)
母は最期にこう言ったのだ──「エレノア、愛しているわ。……リヒトと幸せに……ね」と。
(お母様は私を愛してくれたけど……あの言葉の裏にある思いを、知る術はない。けれど、私はあの日誓った。父の仇を討ち、母の想いに報いるため、必ず王国を倒すのだと。そうすれば、取り戻せるものがあるはずだから)
形見の指輪を握り締める。そこに、微かな震えと熱を覚えた気がして、エレノアは眉をひそめた。
「──ノア、エレノア」
名を呼ばれて意識が現実に引き戻される。頭上から声が降り、見上げるとナイトが覗きこんでいた。
「ぼーっとして、大丈夫?」
「……申し訳ありません、考え事をしていました。大丈夫です」
「そう? でも、顔色が悪いね」
ナイトが心配そうに眉根を下げる。
エレノアは申し訳ない気持ちになったが、警戒心を優り「本当に大丈夫ですから」と距離を置いた。
「わかったよ。何かあったら、いつでも頼ってね。俺は君の〝隊長〟だからさ」
キザったらしく肩をすくめてウインクするナイトに、エレノアはほんの少し呆れ混じりのため息をつく。
再び、ナイトが歩き出した。その後を追いながら、エレノアはじわりと汗ばむ手のひらを見下ろす。指輪が一瞬、ほのかに光ったような気がする──。
(今、光った? まさか……)
エレノアは先日の戦場で似たような事があったと思い出す。
だが、周囲を見回すが、特に異変はない。
振り返ったナイトが指輪に鋭い視線を送った気がしたが、すぐに柔らかな笑みに戻った。
その一瞬の冷ややかな瞳に、エレノアは気づけなかった。
「さて、もう少し見回ったらお昼にしようか。エレノア、食べたいものある?」
「いえ……特に」
「じゃあ適当に見つくろうよ。──気楽にいこう、ね?」
エレノアはひたすらに複雑な感情を抱えんだまま、能天気な口調で会話を繰り出す彼に続いて、穏やかな日常が広がる街を歩む。
握り締めた指輪は、やはりかすかな熱を帯びていた。