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第九話 眠れぬ朝に揺れる想い

 密輸組織の摘発後、ナイトはヴァンとブロンテに有事に備えて休息を命じた。

 スティーリアは半日程休めば回復すると思われる。


 そしてナイト自身は報告書や関連手続きの対応に追われ、まともに眠らぬまま朝を迎えた。


 大方の処理を終えたものの、節々にこびりつく疲労は取れそうにない。

 執務室のソファに体を沈め、大きく息を吐く。



「……ふぅ」



 そのタイミングで珈琲の香りが鼻孔をくすぐった。


 振り向くと、アリファーンがスツールにトレイを載せてこちらへ近づいて来る。

 軽装の衣服から醸し出される妖艶な雰囲気が、彼女の魅力をいっそう際立たせていた。


 この後、任務に付き合ってもらう予定なので仮眠を命じたのだが「慣れているから」と、休むことなく事務仕事を手伝ってくれている。



「お疲れですね、隊長。クマ、酷いですよ」



 ナイトは思わず目尻を触る。

 彼女に指摘されるまで気付かなかったが、どうやら隠しきれていなかったらしい。



「うわ……見えてる?」


「ええ、丸見えです」



 アリファーンが柔らかい笑みを浮かべ、ナイトの隣へ腰を下ろす。

 ナイトは内ポケットから小さな手鏡を取り出して自分の顔を確かめた。


 コンシーラーを使っていたが夜通しの業務で崩れてしまったようだ。

 苦笑して鏡を閉じる。



「……新しく入ったあの子のせいですか? 昼間は付きっきりですもんね、妬けちゃうわ」



 ふわりとヘーゼルナッツの髪を揺らしたアリファーンの軽口に、ナイトは曖昧な微笑で返す。

 確かに新隊員のエレノアの世話も一因だろう。


 しかし本当の理由は、それだけではない。



彼女エレノアを見ていると、昔の自分を思い出さずにはいられないんだよ……)



 ナイトは机の書類をぼんやり眺めた。

 文字が二重に見えてくる。じわりと頭痛が広がる。

 目の前には山積みの書類もあるが、さすがに今は触れる気力がない。


 アリファーンがそんなこちらの様子を見ながら、冗談めかした声を落として囁く。



「眠れないのであれば、私が添い寝してさしあげますよ?」



 彼女の熱っぽい視線を感じ、ナイトは軽く肩をすくめた。



「君が隣にいて、ぐっすり眠れる自信はないなぁ」


「お望みならいつでも応じますわ」



 唇を孤にして妖艶な微笑を浮かべるアリファーンに、ナイトはやんわりと首を横に振る。



「ダメだよ、アリィ。自分を大切にしないと。ね?」



 柔らかく諭すように言うと、アリファーンの表情が一瞬曇った。


 彼女は何か言いかけながら、ナイトの頬に手を当てる。

 情熱的な紅玉ルビーの瞳には、いつもより強い決意が宿っているように見えた。


 自分を慰めようとするその気持ちがただの冗談とも思えず、ナイトは胸が少し痛む。


 しかし、次の瞬間。

 ドアがノックされ、エレノアの声が耳朶に響いた。



「失礼します、隊長。おはようございま──……お邪魔だったみたいですね」



 反射的に体を起こす。

 アリファーンもナイトから離れてゆっくりと姿勢を正した。


 エレノアの視線から、二人の距離の近さを意識しているのが伝わってくる。

 後ろめたい事は何もないのだが、若干気まずい。



「おはよう、エレノア。任務の報告を受けていただけだよ」



 ナイトは何でもないように振舞ってみせるが、エレノアの表情はどこか疑わしそうだ。

 アリファーンがそんな彼女を、まるで値踏みするかのように見つめる。



「ふぅん。貴女がエレノア。隊長の寝不足の原因ね」


「……は? 失礼ですが、貴女は?」



 エレノアが眉をひそめると、アリファーンは鼻で笑って胸を張った。



「アリファーン・フランメよ。ここでは貴女の先輩に当たるわね。よろしく、イノシシ娘」


「な、イノ……っ!?」



 瞬時に顔を赤くしたエレノアが反論しようと口を開きかけるが、ナイトが制止するように立ち上がると、呑み込んだ。

 ナイトは苦笑を浮かべながら、足を組み合わせたアリファーンを瞳に映す。



「こらこら、変なあだ名で呼ばない。さすがに失礼だよ」


「だって、ピッタリじゃありません? 協調性がなく、感情に任せて無闇に突き進み、エリートコースから転落しているんですもの。大層な理想がおありのようですけど、これを笑わずには──」


「アリィ、そこまでだ」



 少し強めの口調で止めると、アリファーンは唇を尖らせて口をつぐんだ。

 見るとエレノアが唇を噛んで俯いている。

 悔しさが見て取れる表情に、居た堪れない気持ちになる。


 ナイトは「こほん」と咳ばらいをして、空気を和らげるような話題を選ぶ。



「二人とも、知ってる? イノシシってさ、実は繊細で学習能力の高い賢い動物なんだ。猪突猛進って言われるのは、ほとんどパニックを起こしている時なんだよ」



 紫黄水晶アメトリン紅玉ルビーの瞳が同時に見つめて来る。

 ナイトは引き締めた表情を、柔らかなものを崩した笑顔に変えて、言葉を続けた。



「経緯はどうあれさ、ここではみんな仲間だ。だから、二人とも仲良くね?」



 少しの間を置いて。アリファーンとエレノアはぎこちなく頷いた。

 ナイトはほっと息を吐きつつ、予定していた今日の任務について話を振ろうとする。



「それじゃ、エレノア。今日の任務だけど──」


「隊長。それ、私がこの子と二人で行きますわ。連日ろくに寝れていないのでしょう? 少しお休みになって下さい」


「……孤児院での奉仕活動だよ? 二人だけで大丈夫?」



 本当は三人で行く心積もりでいた。

 孤児院での奉仕活動は軍のイメージを向上させる意図を持った任務だが、一番は戦争で心に傷を負った子ども達へのケアにある。


 大事な、とても大事な任務だ。

 アリファーンは孤児院出身のため、その事をよく理解している。


 そして、この任務を通じてエレノアに〝現実〟を見て欲しいという思惑が、ナイトにはあった。


 アリファーンがナイトの真意を理解しているのか。

 探るような視線を送ると、彼女は「心配いりませんわ」と笑って見せた。



「親睦を深めるいい機会にもなるでしょう。エレノア、貴女も異論はないわね?」


「……はい」



 エレノアの声はやや低い。

 その反応が気にかかったが──何もかも一人で抱え込むだけが最善ではない。


 この状態で赴いて倒れたら、それこそ大騒ぎになる。

 子どもたちにも心配をかけるだろう。


 ナイトは冷静に自分の状態を鑑みて、二人に任せることにした。



「じゃあ、任せるよ。子ども達によろしくね」


「伝えておきますわ」



 部屋を出るアリファーンとエレノアの背中に「いってらっしゃい」と告げ、足音が遠ざかるまで見送って。

 ナイトは再びソファへ身体を預けた。


 執務室に静寂が戻る。


 書類や報告書がまだ山のようにあるのは重々承知しているし、内部犯の調査も進めなければならい。

 だが、疲労はもう限界に近かった。



(……少しだけ、休ませてもらおう。起きたら……調査の、続きを……。……殿下に……報告……)



 クッションを抱いて瞼を閉じると、思考がほどけ、昏い眠気が意識を霞ませてゆく。

 ナイトは倒れ込むようにソファへ沈み、微睡みの中へと落ちていった。

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