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第十二話 見えざる傷跡

 奉仕活動の終わりに「お姉ちゃん、またね!」──と、笑顔を輝かせた子どもたち。

 それに自分がどう返したのか、エレノアは思い出せない。


 心にわだかまりを抱えたまま、地に足の着かない状態で、風化して今にも崩れそうなヴェインの隊舎へとエレノアは戻った。


 脳裏では子どもたちの笑い声や、アリファーンの鋭い言葉が繰り返し再生されている。


 本当は今すぐにでも与えられた自室のベッドへ横になりたかったが、任務完了の報告をしなければならない。


 エレノアはナイトの執務室を目指して、夕陽に染まる廊下を重い足取りで歩む。


 程なくして執務室の前に辿り着き、目に入ったのは廊下に散乱した書類の一部だった。



(何でこんなところに?)



 疑問に思いつつ、かがんで数枚拾い上げてみる。


 事務手続きや報告書らしき文書だ。

 ナイトの名義で判が押してある。


 少し前に終わった軍内の案件とも関わりがありそうで、もし失くすと面倒なことになりそうな気がした。


 整理して返そうと思い、エレノアは散らばった書類を腕に抱えながら、執務室の扉をノックする。


 しかし返事はない。


 扉はわずかに開いていて、隙間からうっすらと灯りが漏れている。

 人の気配と、唸るような声が聞こえる。


 もしかしたら、先に戻ったアリファーンがいるかもしれない。

 そんな考えが頭をよぎり逡巡するが──「だから何だ」とエレノアは首を振って、扉を静かに押し開けた。



「……失礼します」



 声に反応はない。


 薄明かりの中、机の上には朝と変わらず書類が山積みになり、ソファで横になっているナイトの姿が目に入った。


 一瞬、怠けて眠っているのかと思ったが、その姿勢は眠りに落ちているというより、痛みや苦しみに耐えているように見える。



「隊長?」



 耳を澄ますと、微かに断片的な声が聞こえる。



「──……う、う……ぁッ! 父さ……母……ナ──、アイナ……っ」



 うめき声のような、誰かを呼ぶような──はっきりとは聞き取れないが、悲痛な響きがエレノアの鼓膜を震わせる。


 これまで戦場で多くの叫びや嘆きを聞いてきたが、ナイトのうわ言からは深い苦悩を感じた。


 エレノアは息を飲んでソファへ歩み寄り、書類をテーブルに置いてナイトを覗き込んだ。


 額に汗を浮かべ、眉を寄せて、しきりに小さな叫びを漏らしている。

 普段の飄々とした態度の彼とはまるで違う。


 どう見てもただの居眠りではなく、悪夢の最中にあるようだった。


 エレノアは躊躇いながらも声をかける。



「隊長……大丈夫、ですか?」


「…………許し……っ……ごめ、ごめん──うぁ……!」



 彼は一体、誰に謝っているのだろうか。

 苦悶する声がエレノアの胸を締め付ける。



「隊長、ルーネント隊長!」


「──っ! ぅう……」



 深い眠りに落ちているのか、何度呼んでも起きる気配はない。

 苦しみに歪む表情は、とても見ていられなくて、エレノアはナイトの肩に手を置き、軽く揺さぶった。



「起きて下さい、隊長!」



 ナイトはびくりと身体を震わせて短い悲鳴をあげ、瞼を閉じたままエレノアを拒絶するような動きを見せた。


 エレノアは驚いて、手を離そうかと一瞬考えたが……ごくりと唾を飲み。



「ナイト隊長!!」



 負けじと声を張り上げた。


 すると、閉じていたナイトの瞼がぱちりと開き──翡翠色の虹彩が焦点を定めるまで数秒。


 エレノアはその間、激しい動悸を感じつつ彼を見守っていた。



「…………エレノア、か……?」



 乾いた唇が動き、苦しげな息の音とともに言葉が紡がれる。


 ようやく目覚めたらしい。

 ナイトはソファに横たわったまま、身体の力が抜けてしまったのか、すぐには起き上がれない様子だ。


 エレノアは軽く息を付き、彼の顔色を確かめる。



「大丈夫ですか? すごくうなされていましたけど……」



 問いかけにナイトは何かを探すようにあたりへ視線をさまよわせた。

 書類だらけの机と、薄暗い部屋、エレノアの顔──と順番に見つめて、ようやく苦笑交じりに口を開く。



「……少し、悪い夢を見ただけだよ。大丈夫」



 とは言うが、ナイトの声は少し震えており、納得し難い。

 さらに多量の汗が軍服を湿らせている。

 よほどの悪夢だったのだろう。



「本当ですか? 顔色が悪いですよ」


「これは、ちょっと眠れてなくてね。でも、危うく寝過ごすところだったから、起こしてくれて助かったよ。ありがとう」



 ナイトがいつものへらっとした笑顔を浮かべて、ソファから起き上がろうとする。


 だが、バランスを失いかけ、エレノアはその肩をとっさに支えて共にソファへ座った。

 ナイトが「ああ、ごめんね」と笑顔を消して目を伏せる。


 何事にも動じなそうな彼が、こんな姿を見せるなんて思いもしない事だ。



「……何か、辛い事でもあったんですか……?」



 無意識に出た言葉に、エレノアは自分で驚く。


 出会って日の浅い相手に聞くような事ではないのに、彼の姿を見ていると無関心ではいられなかった。


 ナイトは瞠目して「んー……」と曖昧に唸った後、首を横に振る。



「気にしないで。大した事じゃないからさ。それより、君こそどうだった? 孤児院での活動は──」



 あからさまに話題を逸らされた。

 アリファーンに「隊長は貴女を信用していない」と言われた事を思い出して、エレノアは唇を引き結ぶ。


 その仕草をナイトは奉仕活動が上手く行かなかったと誤解したらしく、慰めの言葉を口にする。



「気落ちする事はないよ、何でも最初から完璧に行くわけないんだから。失敗は次に活かせばいい」



 柔らかく細められた彼の目の下には、うっ血してクマが出来ていた。


 エレノアは知らされていなかったが、アリファーンの話によると昨夜、密輸組織の摘発に出ていたと言うし、その事後処理や報告書作成に追われ、ろくに眠ていないのだと思われる。



(どうして……どうして、こんな時に私を気遣えるんだ……?)



 彼自身を蔑ろにしているとも思えるナイトの姿勢が、エレノアは腹立たしかった。



「今日は他に任務もないし、ゆっくり休むといいよ」


「……隊長こそ、家に帰ってゆっくり休んだ方がいいんじゃないですか。疲労が顔に出ています」



 思わず刺々しく奏でてしまった音に、ナイトが表情に影を落とした。



「……俺に、帰る家なんてないよ」


「え……?」



 消え入りそうな声でぼそりと呟かれた言葉。

 そのあとに、いつもの揶揄いまじりの軽口は見られない。


 普段から「無能な隊長」と陰口を叩かれたり、飄々とした態度で呆れられたりしても、彼は笑って流していた。


 それなのに、今はこんな弱々しい姿を晒して──。


 彼の内面には大きな苦悩や過去が隠されているのだと、確信めいたものをエレノアは感じた。



(この人も、私と同じように……傷を抱えているのだろうか)



 エレノアがしばし無言でナイトを見つめていると、彼はハッとして「ごめん、何でもない」と取り繕って笑った。


 形だけの笑いに見える。


 だが、エレノアはこれ以上、深入りする気にはなれなかった。

 さっきは無意識に踏み込んでしまったが、自分自身の事さえままならないのに、他人の事情に踏み込む余裕などない。



「ほら、そろそろ行きな。それとも、部屋まで送って行こうか?」


「……結構です」



 ナイトは依然として顔色が優れないが、軽口を叩けるくらいには調子が戻ってきたようだ。

 いつまでもここにいては、彼も休めないだろうと慮る。



「それでは、私はこれで失礼します。任務の報告は、のちほど報告書に纏めて提出します」



 エレノアはおもむろに立ち上がり、執務室の扉へ向かう。



「急がなくていいよ。明日、明後日は非番だろう? 羽根を伸ばしておいで」



 優しく投げかけられた言葉に振り返ると、穏やかに笑ってはいるが、ふとした仕草に悪夢の残滓を感じさせる彼がいた。



「……隊長もしっかり休んでください。その……倒れては、元も子もありませんから」



 押し付けがましい台詞だと自分でも分かっているが、口から出てしまう。


 ナイトは困り顔で「ありがとう」と返してソファに身を預け、エレノアが距離を取ると静かに目を閉じた。


 まるで先ほどの悪夢を忘れようとしているかのようだ。



(この人は、一体どんな過去を抱えているのだろう。……アリファーンが言っていた事も、気に掛かる。それに、この小隊の事も……)



 全てが不透明なままである。

 エレノアは扉をそっと扉を開いて廊下に出ると、深い溜め息を落とした。


 ──復讐を果たしたい。


 その鮮烈なる願いが、エレノアの中で揺らぐ事はなかったが──今日一日の出来事が、苛立ちと戸惑いの混じった感情へと変わり、胸に降り積もってゆく。


 溶けない雪のように重く、厚く。


 行き場のない思いを抱えて、静まり返った廊下をエレノアは歩む。

 宵闇に包まれゆく中で、足音が寂しく響き渡った。

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