エレノアが退出した執務室、ナイトは遠ざかる足音を聞きながら、天井を仰いだ。
「……はぁ、情けないところを晒したな」
ソファに体重を預けて、ため息をこぼす。
ナイトが夢に見たのは、時が過ぎ去ろうと色褪せる事無く、鮮明に刻みつけられた過去の記憶。
戦火に焼かれる故郷、悶え苦しみ息絶える人々の姿。
そして、己の過ちが招いた悲劇の残痕──。
「一度見たことを、決して忘れる事が出来ないってのは……便利な反面、厄介だよ」
ナイトは汗で張り付いた前髪を、くしゃりと掻きあげた。
自分の能力をこれほどまでに煩わしく思った事はない。
眠っていたはずなのに、疲労感が和らぐどころか増している。
それに、悪魔にうなされる姿を、彼女には見られたくなかった。
自分と同じ、復讐の道を選んだ彼女には。
「……シュトラール。君も、俺も。始まりはそこだな……」
──辺境領シュトラール。
そこは南東の国境付近に存在し、山と海、双方に面した地。
陸路は山一つ越えねばならない事もあり、皇都や港のない他領との交通の便はあまりよくなかった。
代わりに山が天然の要害となっており、国境近くにあって王国の侵略を受け辛く、資源も豊かで平和な場所であったが──。
「父さん、母さん……アイナ」
ナイトは覚えている。
屋敷に取り残された幼い妹、アイナが炎に呑まれた姿を。
両親が
「──っ! 何度……思い出しても、吐き気がする……」
ナイトは口元を押さえて、ふらりと立ち上がる。
過去の感傷を振り切るように「やるべきことを、やらないと……」と、覚束ない足取りで扉へ向かう。
「スレイン殿下に報告を……。それから、密輸犯の尋問に……」
予定を反芻するように呟きながら、ドアノブに手をかけた。
激しい動機が収まらない。
幾度が息を吐いて視線を落とすと、書類が散らばっていた。
おそらく、うなされている時にテーブルへ置かれた書類の山を崩してしまったのだろう。
一枚を拾い上げ、記憶に焼きついたその文面を見やる。
(密輸品の搬入経路……。判明しているルートだけでも、大胆不敵なものだ。ここまで恐れず動けるのは、皇国に潜むバックボーンが大物である証……)
ナイトは書類を折りたたんでポケットにしまうと、疲労の抜けきらない身体を引きずって廊下を進む。
目指すはスレインの執務室。
そこは軍本部を出てほど近いアウローラ城の中にある。
いつもなら護衛兵や侍従を避けて、人目の少ない裏門に回るのだが、夕暮れ時が近い。
「正門を通るか……。派手に顔を見せるのも面倒だけど」
このまま夜になったら再び悪夢に苛まれるかもしれない。
早く用件を済ませたい焦りから、時間の掛からない手段を選ぶ。
ナイトが王宮の門をくぐると、衛兵は一瞬だけ怪訝な表情を浮かべたが、スレインと約束があることを告げると、特に咎めず案内を始めた。
「こちらへどうぞ」
「ありがとう」
ナイトは小さく笑って、衛兵の後を追う。足音が王宮の大理石の廊下に反響する。
すれ違う人の冷ややかな視線と、ひそひそと囁かれる陰口。豪奢な装飾が視界に入るたび、かつて尊敬し仕えていた〝あの人〟の顔が脳裏をよぎる。
だが、胸に疼く痛みを押し殺し、ナイトは進み続ける。これ以上、過去に呑まれたくなかった。
執務室の前まで足を運んだナイトは「殿下、ナイトです」と名乗りながら扉をノックし、中から「入って」と返事が戻るのを待って入室した。
「久しぶりだね、ナイト」
スレインは執務机の奥、夜の闇を溶かし込んだ青髪を揺らし、
ナイトは軽く会釈をした。
「おや? 君にしては珍しく弱った顔をしているじゃないか。どうした?」
「いえ、相変わらず寝不足なだけですよ、殿下」
「そうかい? まあ、君はいつも忙しいからね。……さて、報告してもらおうか。密輸組織は一応摘発したと聞いたが」
忙しいのは誰のせいか。ナイトは喉元から出かかった言葉を飲み込んで、簡潔に状況を報告する。
街で泳がせた密輸人の足跡を追って密輸現場を取り押さえたこと、残った証拠品からサンクリッド王国の影がちらついていること──。
他にも、同時進行しているいくつかの任務について、経過報告を上げた。
「うんうん、上出来じゃないか。やはり〝ヴェイン〟は使えるね」
「……それで、殿下。この先はどうします? 裏切り者の存在はほぼ確実です。こちらから網を張り、獲物を炙り出しましょうか?」
「フフッ、そう焦らなくてもいい。皇国内部で裏と繋がっている者……その一部はすでに候補がいくつか挙がっているだろう? いずれ、まとめて一掃したいものだね」
スレインが薄ら笑いを浮かべた。その瞳には、どこか愉悦に満ちた光が宿っている。ナイトは頷いて、淡々と質問を重ねる。
「では、まずは尻尾を掴んでいきましょう。ひとまず、密輸犯の取り調べを急ぎたいと思いますが……」
「……ああ、その事なんだが」
言いかけて、スレインが不意に瞼を伏せ、小さく舌打ちをしたように見えた。彼の変化に何かあったのだと感じ取りナイトの胸がざわつく。
スレインはデスクの引き出しから一通の手紙を取り出し、ナイトへ差し出した。
「先ほど報告があった。どうやら、あの密輸犯……獄中死したらしい」
「──っ!」
ナイトは数秒、言葉を失う。
重要な手がかりとなるはずの犯人が、わずか一日のうちに死んだという。
ありふれた偶然か、あるいは口封じか。ナイトの思考が一気に巡る。
「詳しい状況は?」
「それが、不可解な点が多くてね。外傷はなく、毒を盛られたわけでもない。もちろん、病死でもない。看守が見つけた時には、恐怖に歪んだ顔で死んでいたそうだよ」
「ショック死……明らかに不審な死に方ですね。考えられるのは呪詛の類いですが……俺が見た限り警備は完璧な配置でした。そもそも、牢は魔術を阻害する
ナイトは紙を握りしめ、奥歯を噛む。
密輸組織の裏に見えた王国の影、さらに皇国内部に手引きする者がいるという推測が確信に近づいた矢先、最重要の証人が消された。これは間違いなく意図的な犯行だ。
「取り調べすら始めていないのに……。申し訳ありません、殿下。俺の失態です」
ナイトは深く頭を下げた。
せめて、ヴァンかブロンテを見張りに付けておけば、防げたかもしれない、と自分の判断を悔いる。
が、スレインは意に介さぬ調子で軽く手を振った。
「ま、焦りすぎるのは禁物だよ、ナイト。むしろ、今回の件で〝大物〟……皇国を蝕む毒に目星がついたじゃないか。そいつらに一網打尽の罠を仕掛ける機会は、いずれ来る。君なら、わかるだろう?」
「……ええ、わかりました。ただ……〝イーリスの時〟のように、後手に回るわけには行きません。〝あの人〟の毒が広がりきる前に、阻止しなければ」
ナイトの声に熱がこもる。忌まわしい記憶と共に握り締めた拳が、震えた。
〝イーリスの悲劇〟──ナイトは、自分があの悲劇を引き起こした一端だと自覚している。
(悲劇が繰り返される事態を、看過するわけにいかない)
何のために無能を演じ、道化に興じているのか。
あの時感じた痛み、悔しさ、後悔は忘れることが出来ない。二度と同じ轍は踏むまいと、ナイトは握った拳を胸に置いた。
それを見たスレインがくつりと笑い、告げる。
「……私もむざむざしてやられるつもりはない。だから今一度、足掻こうじゃないか。私の持てるすべてと君の頭脳を使って」
「足掻き、ですか」
「ああ。悲劇は美しくないからね。泥に塗れようと、それで救える者がいるならば、安いものさ」
ナイトはふっと笑う。スレインは美しいものを好み、計算高く狡猾な面も持ち合わせているが、人の情がある。この人の手を取って良かったとナイトは思う。
「……了解です、殿下。俺の頭脳は、守る為に振るおうと決めましたから。それこそイーリスの件で──」
言いかけてナイトは言葉を呑み込む。
スレインが頷き、机の上の書類に視線を戻したタイミングで、ナイトは深く息を吐いた。
「密輸の件、もう少し洗ってみます。詳しい情報を入手次第報告します」
「よろしく頼むよ、ナイト。……ああ、それから君、顔色が悪いが本当に平気かい?」
一瞥したスレインの問いかけに、ナイトは小さく肩をすくめた。
自覚はあるが、よほど酷い顔をしているのだろう。
「慣れていますから、ご心配なく。では、失礼します」
ナイトは踵を翻し、執務室を後にした。