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第七話 独断の果て、嗤う炎帝

 ナイトとアリファーンの会話を盗み聞いて王国軍の襲撃計画を知り、野営地へ単独で乗り込んだエレノアは敵の指揮官〝幻想獣使いコンジュラー〟の男と遭遇して──。


 男が魔法陣から出現させた炎の壁。轟々と燃え盛る炎にエレノアが目を奪われていると、炎の中から排出された塊が、電光石火の如き速さでこちらへ向かってきた。



(なんだ……!?)



 危険を察知して、横へ跳ぶ。

 すんでのところで直撃を避けるが、すれ違い様に灼熱が腕を焦がした。



「──っう!」



 強烈な焼ける痛みが肌に広がり、顔を歪める。視線を落とすと赤くただれた熱傷ができていた。



「お、よく避けたな? 伊達に一人で殴り込んで来ただけはある。だがぁ……いつまでも逃げ切れると思うなよ」



 男が再び指を鳴らすと、先ほどと同じように炎の壁が立ち昇り、その中から幾つもの炎の塊──ではなく、長い鼻の先に火花を散らし、体毛が燃え盛る炎に覆われた死黒鼠モルトラットより小ぶりなネズミが出現した。


 エレノアはごくりと唾を飲む。


 幻想獣使いコンジュラーと戦ったことはないが、彼らが異界から召喚する〝幻想獣〟がどのようなものかは、知識がある。



火鼠カソ……!」



 それは死黒鼠モルトラットの上位種。毒の特性と、燃え尽きることのない炎を操り獲物を焼き殺す凶悪な幻想獣だ。



「アタリだ。さて、この数の群れを相手にどう戦うか見物だな。お前たち、手は出すなよ」



 男は口の端を上げて兵に告げ、愉快だと言わんばかりに両手を叩き合わせた。



「我が炎鼠えんそよ、血の宴を楽しめ!」



 周囲を取り囲む火鼠カソが、全身から赤く燃える炎をほとばしらせ、鋭く尖った牙を剥き出しにして獰猛に鳴いている。炎の熱気が肌を灼き、吐く息すら焦げそうだった。



火鼠カソの弱点は水。水場に追い込んでしまえば、有利に戦える。でも、こんな乾いた山岳地帯の中じゃ……)



 切り立った岩肌がそびえる戦場に潤いはなく、足元の土も枯れ切っている。



(水の魔術なら──)



 そう考えて詠唱しようとするが、火鼠の一匹が鋭い音を立てて飛びかかってきた。


 エレノアは反射的に身体を捻り、剣を横に払う。燃え盛る身体を断ち切られた火鼠が悲鳴を上げて地に転がった。


 しかし、次の瞬間には、二匹三匹と群れが波のように襲い掛かる。



「くっ……キリがない!」



 一匹倒すごとに分裂・増殖しているのではないかと疑ってしまう。まるで村で繁殖していたネズミを見ているようである。


 数を相手にするなら大規模殲滅魔術が有効だか、詠唱の時間もマナも足りない。簡単な魔術でさえ発動する間がない。


 背筋に流れた汗が冷たく、焦燥感が胸を締め付けた。



「どうしたぁ、小娘。さっきまでの威勢はどこへいった?」



 ゆったりとした口調で男が嘲笑を投げかける。彼は火鼠カソが何匹倒されようが、一切動じる様子がない。ネズミの牙を磨いたのであろうネックレスを弄び、楽しそうにこちらを眺めている。


 圧倒的な強者が持つ余裕。


 見下すような視線にエレノアは屈辱を感じるが、実際問題、戦況は厳しかった。



(このままだと、押し負ける……)



 防戦一方では消耗するだけ。エレノアは肩を上下させて荒く息を吐き出し、攻勢に出るべく震える手で剣を握り直した。



(大群を一掃できないなら……狙うのは頭!)



 戦いのセオリーだ。男へ向かって突貫する。


 敵の鋭い牙が肩を掠め、熱せられた爪が脚を引っ掻く。炎に炙られ、皮膚が熱を持ってひりつき、腕の傷から滲む血でグリップが滑った。


 剣を振る腕が重い。肉体的な痛み、精神的な苦痛が集中力を乱すが、足を止めれば待っているのは敗北だ。


 自分の動きが徐々に鈍っていくのを感じながらも、エレノアは前へ進むことを諦めなかった。



「お前さえ、倒せば!」



 足の裏に力を込めて蹴り上げ、迅雷の速さで男に迫る。


 頭、心臓、腹、どこでもいい。決定打となり得る一撃を入れれば、勝機はある。


 男の懐へ飛び込み、近接戦に持ち込む。



「お、そうくるか。いいぜ、打ち合おう」



 エレノアが下段から剣を斬り上げると男は身を反らしてかわし、コマのように身体を回転させて蹴りを繰り出した。咄嗟に剣身で受けるが、想像以上に重くキレのある蹴撃だ。耐え切れずに数メートル飛ばされる。



「いやあ、こんなに元気な獲物は久々だ。退屈が吹き飛ぶね」



 降下しながらの蹴りが襲いかかった。エレノアは惰力で後ろへ跳んで回避する。


 だが、矢継ぎ早に掲げた踵が振り下ろされて──ぐしゃり。


 粉砕する嫌な音が鼓膜に反響した。右肩より鮮烈な痛みが電撃となり駆け巡る。



「ああぁッ!!」



 頭が真っ白になった。呼吸がままならず、動きが止まる。

 その隙を、敵は見逃してはくれなかった。



「ほら、楽しませろよ……!」



 人間離れした跳躍蹴りから、遊びのない足技の連撃がエレノアを打つ。剣や腕を使って最低限防御の姿勢を取るが、防ぎ切れず傷が増えてゆく。



「どうしたぁ! お前の力はこんなもんか?」


「うっ! ……っく!」



 反撃しようにも隙がない。体力も限界を迎えつつある。


 予想以上の強さに〝敗北〟の二文字がよぎった、刹那のこと。


 鳩尾に痛烈な一撃が入った。


 視界が揺れる。息が出来ない。


 上げたはずの悲鳴は音にならず、衝撃で宙を舞った躯体が、火鼠カソの群れ近くの地面へ叩きつけられた。



「……ふん、終わりか」



 伏した地面は冷たい。が、打ち据えられた全身は熱くて痛い。息を吸うと漏れ出るような音がして、口の中に鉄の味が広がっていく。



「ま……だ……っ!」



 いつの間にか手放してしまった剣が、カランと音を立てて眼前へ転がる。


 立ち上がって拾わなければ、と思うが身体を少し起こすのがやっとであった。


 キイキイと騒ぎ立てて火鼠カソが迫りくる。男はその後ろ。不気味な刺青の入った腕を組んで、不遜に佇んでいた。


 いまの状態では睨むことしかできないが、抗う心はまだ折れていない。



「……誰、が、苗床に……など!」


「ふっ、闘志に満ち溢れているのはいいなぁ。ネズミたちも喜ぶだろう」



 勝ち誇った男を前に、悔しさで唇を噛む。そんなエレノアの脳裏に、眩しい笑顔の花を咲かせ「お姉様」と呼びかけるリヒトの姿が浮かんで──エレノアは目を見開く。



(負けられない……負けられ、ないんだ!)



 土を握り締めて腕に力をこめると、形見の指輪が胸元で蛍火のように輝き、わずかな熱を帯びた。


 戦の前線での乱戦時、そして地下空洞で死黒鼠モルトラットと対峙した際の〝奇跡〟が思い出される。



(そうだ、指輪の力……! あの力があれば、こんな状況どうとでもなる……!)



 この窮地に僥倖だと思った。覚えているだけでも二度、指輪は自分を救っている。


 エレノアは今回もきっと奇跡が起こるはずだと信じて疑わなかった。



(私に、力を……魔獣とを殺し、王国を滅ぼす力を……よこせ!)



 昏く激しい憎悪の炎を燃え上がる。冷笑にも似た喜びの笑みが唇の端に浮かんだ。


 ──しかし、思いに反して指輪の輝きは翳りを見せ、たちどころに熱も失われて……沈黙した。


 奇跡が起きる気配はない。


 指輪に手を伸ばすが、金属の冷たさだけが伝わってくる。



「どうして……?」


「んん? その指輪ぁ……見覚えがあるな。……女神の遺物アーティファクトか? だがぁ、アテが外れたみたいだな」



 喉を鳴らした笑い声が鼓膜の奥に響く。男は勝利を確信していて、エレノアも打つ手がないことを自覚し始める。



「さあ、あとはゆっくりネズミの養分になりな。女の血肉はコイツらにとってご馳走なんでな」



 男が指を鳴らすと、火鼠カソが一斉にエレノアへと飛び掛かり、鋭利な牙を肌へ喰い込ませた。灼熱の炎がまとわりつき、内側から焼かれる痛みに、エレノアは悲鳴を抑えきれなかった。



「──あ、ああッ!」



 血とすすに塗れた腕が震え、抵抗しようと力を込めるが、炎熱と傷の深さに上手く動かせない。


 痛みが意識を奪いかける。なのに、身体は奇妙なほど冷たい。苦痛が限界を超えて、感覚を麻痺させているのだと認識し、背筋がぞわりとする。



(どこで、判断を間違ったの……?)



 指先から力が抜け、目頭に涙が滲んだ。胸中をただただ未練が占める。



(勝手に一人で行動せず、隊長に話を聞いて……指示を仰げば、こんな事にはならなかった?

 でも、彼は……私を信用していない。ヴェインの記章を与えられていないのが、その証拠で……)



 在りし日の思い出が、走馬灯のように巡る。


 血のにじむ努力で研鑽を積んで軍人となり、復讐を果たすと誓ったのに。功を焦って己の力量を見誤り、一瞬の独断がもたらした結果はこんなにも無様だ。


 熱に溶かされそうな意識の中で、ブライトルチアリヒト──それ以外にも、たくさんの人の顔が浮かんでは泡のように消えて行き、エレノアは唇を噛んだ。



「っ……誰か……!」



 唇から溢れたのは、後悔の吐息。


 なにかに縋るなんてみっともない姿だ。それでも、このまま諦めて絶望に沈みたくなくて、朱色に染まるそらへ手を伸ばした。


 転瞬、黄昏を閃光が切り裂く。

 眩しさに目を閉じた瞬間、炸裂音と鋭い衝撃が地を揺らした。



「──ぉお!?」



 男が上擦った声を上げた直後、火鼠カソも怯えたような鳴き声を発して熱気が遠ざかり、エレノアの頬を柔らかな風が撫でた。


 指先にじんわりと染み入る温かさを感じる。それが身体を包んでゆき、苦痛が消えた。



(……何が……?)



 ゆるゆると瞼を開くと、霞んだ視界の端に朝露のような銀色と、穏やかで優しい翡翠の色が映り込んだ。



「……まったく、無茶ばかりするな。『何かあったら、いつでも頼ってね』って言っただろう? 俺は君の〝隊長〟なんだからさ」



 初対面では軟派なイメージのあった柔和な微笑み。この場面にあっては頼もしく思えるそれを浮かべた彼が、目の前にいた。

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