金属の擦れる微かな音がする。湿ってカビっぽく、生臭いにおいが鼻をつく。
肌に触れる冷たいものが体温を奪う感覚に身震いをして、エレノアは意識を浮上させた。
ゆっくり瞼を開く。辺りは薄暗い。仄かにろうそくが灯っているが、色濃い闇が垂れこめている。
吐いた息が凍りそうなくらい、寒い。全身のだるさも相まって、身体の動きを阻んだ。
(……ここは……?)
思考を巡らせようとして、頭に刺すような痛みを覚える。
しばらく痛みに苛まれたあと、脳が軋みながら働きだした。
直前にあったことが鮮明に思い出される。
任務の最中、ドゥエル村で遭遇した〝
暗がりの中、おぼろげな視界に広がるのは、冷たい石畳と堅固な鉄柵。どう見ても牢獄だ。
「……エレノア」
消え入りそうな声がすぐ後ろから聞こえた。エレノアは気怠い身を起こして、そちらへ瞳を向ける。
そこには、血に塗れ、瞼を重く下ろして痛々しい姿になったナイトの姿があった。彼の両腕は頭上の鉄鎖に拘束され壁へ繋がれている。足も同様だ。軍服はあちこち裂けて、覗く肌には赤紫の
エレノアは音にならない声を吐く。見た目にも酷い状態だ。だと言うのに──。
「気がついた? ……よかった」
ナイトが口元を綻ばせてみせた。意識が朦朧としているようにも見える。その姿に、胸が痛んだ。
自分を気遣う余裕があるなんて、信じがたかった。
エレノアは反射的に彼の傍へ寄ろうとしたが、
(私が……制止を聞かずに、深追いしたせいだ……)
ここにいるのは、ナイトだけなのだろうか。ブロンテやアリファーン、ヴァンはどうなったのか——それはわからない。
ただ、自分のせいで仲間を危険に晒してしまった事実に、胸が苦しくなる。
こんなことになるとは、微塵も思っていなかった。
何があってもどうにか出来るという自負があった。
だけど結局は、驕っていただけだと思い知らされる。これではドゥエル村の時と同じだ。
「ごめん、なさい……私……」
やっと絞り出した声は掠れ、うまく言葉にならない。ナイトの手首を繋ぐ鎖がいやに目につく。
自分が間違えなければ、ナイトがこんな目に合うことはなかったはずだ。
浅慮の後悔が胸に降り積もり、悔しさの雫となって瞳からあふれてしまいそうになる。
ところが——ナイトは首を横に振った。
「エレノアが、謝る……必要はないよ。あの、
たどたどしく言葉が紡がれる度に、彼の口角の端から鮮血がぽたりと流れ落ちた。
何が、立派だと言うのだろうか。使命感を笠に着て、激情のまま行動しただけなのに。
「……どうして、ですか。どうして、隊長はいつも、私を責めないのですか……? こんな目にあっても──」
エレノアはぎゅっと唇を結んだ。カラカラと喉の奥が乾き、心臓が大きく鼓動して胸元が痛む。
滲んだ世界で、苦しげに息を吐くナイトの姿が見える。
顔や腕の傷だけじゃない。おそらく内側にも相当なダメージを負っているのだろう。
(いけない、このままだと……)
戦場で幾度となく目にした〝死〟を連想させる姿に、血の気が引いて行く。
取り返しのつかないことをしてしまった。
ほんの数日前、仲間に対し「結果的にうまくいけばいい」「〝復讐〟を果たすためなら何をしても構わない」と思っていた報いが、今ここにある。
彼を死なせてしまったら、きっと自分を許せない。
エレノアが苦悶に表情を歪めると、ナイトが苦笑するのがわかった。
「こんなのは……絶望、するほどの状況じゃ……ないさ。むしろ、こういう時こそ……俺の武器が、役に立つ。……大丈夫。心配するな、エレノア」
彼の血に濡れた唇が、緩やかな孤を描く。
今にも死にそうな顔をしているくせに、どうしてそんな風に優しく笑えるのか──。
エレノアには理解できなかったが、これが〝守るために力を揮う〟と誓った彼の原動力、強さなのだろう。
「どうやって、打開するか……少し、考えてみるよ。君は、無理をしないで……休んで……」
ナイトは粗い息を整えながら周囲を見回し、牢の構造を観察しているようだった。
「な……隊長こそ、休んでください! いえ、それよりも、怪我の治療を……!」
思わず声を荒げたエレノアに、ナイトが微笑む。両腕の自由を奪われ、息をするのも苦しそうで死にかけているのに、彼に何が出来るというのか。
にもかかわらず、翡翠色の瞳はまるで「ここが始まりだ」とでも言うかのような
「アリィの……転移魔術が使えれば、簡単だったけど、ここの結界は……厳重、だね。
「……自力で……」
エレノアは反芻するように呟く。
落ち着きを取り戻して周囲を観察すると、狭い牢の壁には無数の鉄格子が並び、天井近くに小さな通風口があるだけ。兵の足音や囁き声が遠くに反響している。
(この状況を、本当に打開できるの……?)
疑問が募る一方で、ナイトは折れない意思を掲げ、不屈の態度を体現していた。
どれほど恐怖と絶望が迫っていても、笑みを絶やさず「大丈夫」と言い切る強さに胸を打たれる。
(最初は軽薄で軟派で、飄々と掴みどころのない男だと、思っていたのに)
その内面は恐ろしく強靭だ。逆境にあってこれほどまで粘り強く、美しくいられる者を見たのは初めてだった。
(どうして貴方は、こんなにも……)
エレノアはナイトの姿に、言い表せない羨望と嫉妬を覚える。
闇の中で煌めく彼の
鎖に繋がれてなお、解放への策を練るために思考をめぐらせている彼の瞳が、眩しく見える。エレノアはつい視線をそらし、胸の指輪を撫でた。
この指輪が奇跡の光をもたらしてくれれば──なんて、甘い考えがよぎるが、現実はそう都合よく出来ていなかった。
「……私も、考えます。今状況で、何が出来るのか……」
一度は無謀さゆえに深みへ沈んだ身でも、まだ取り返せるはずだと信じたい。
何より、こんなところで彼を死なせる訳にはいかなかった。
ナイトが「助かるよ」と穏やかに笑みを返してくる。
エレノアは這いつくばって彼の隣へ並び、冷たい壁に背を預けた。
(今は……生きて、ここを出ることだけ考えるんだ。余計なことは後回し。……この人と一緒に、帰るんだ)
時間の知れぬ暗い牢獄。冷気に凍えそうな身体を、ほんの少しためらいながら彼へ寄せて、触れ合うわずかな体温に安堵を覚えた。
遠くから響くうめき声と鎖の音を聞き、死のニオイが充満する中で、エレノアは思考する。
生き残る術を──。