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第九話 絶望の檻で交錯する想い

 金属の擦れる微かな音がする。湿ってカビっぽく、生臭いにおいが鼻をつく。

 肌に触れる冷たいものが体温を奪う感覚に身震いをして、エレノアは意識を浮上させた。


 ゆっくり瞼を開く。辺りは薄暗い。仄かにろうそくが灯っているが、色濃い闇が垂れこめている。


 吐いた息が凍りそうなくらい、寒い。全身のだるさも相まって、身体の動きを阻んだ。



(……ここは……?)



 思考を巡らせようとして、頭に刺すような痛みを覚える。


 しばらく痛みに苛まれたあと、脳が軋みながら働きだした。

 直前にあったことが鮮明に思い出される。


 任務の最中、ドゥエル村で遭遇した〝幻想獣使いコンジュラー〟の男を発見し、その後を追った。そこで魔術阻害インヒビションにかけられ、転移魔術の光に飲まれて——気が付けばここにいる。


 暗がりの中、おぼろげな視界に広がるのは、冷たい石畳と堅固な鉄柵。どう見ても牢獄だ。



「……エレノア」



 消え入りそうな声がすぐ後ろから聞こえた。エレノアは気怠い身を起こして、そちらへ瞳を向ける。


 そこには、血に塗れ、瞼を重く下ろして痛々しい姿になったナイトの姿があった。彼の両腕は頭上の鉄鎖に拘束され壁へ繋がれている。足も同様だ。軍服はあちこち裂けて、覗く肌には赤紫のあざが咲いていた。


 エレノアは音にならない声を吐く。見た目にも酷い状態だ。だと言うのに──。



「気がついた? ……よかった」



 ナイトが口元を綻ばせてみせた。意識が朦朧としているようにも見える。その姿に、胸が痛んだ。

 自分を気遣う余裕があるなんて、信じがたかった。


 エレノアは反射的に彼の傍へ寄ろうとしたが、魔術阻害インヒビションの影響か身体が重い。脚や腕に拘束はないものの、倦怠感が自由に動くことを許してくれなかった。



(私が……制止を聞かずに、深追いしたせいだ……)



 ここにいるのは、ナイトだけなのだろうか。ブロンテやアリファーン、ヴァンはどうなったのか——それはわからない。


 ただ、自分のせいで仲間を危険に晒してしまった事実に、胸が苦しくなる。


 こんなことになるとは、微塵も思っていなかった。

 何があってもどうにか出来るという自負があった。


 だけど結局は、驕っていただけだと思い知らされる。これではドゥエル村の時と同じだ。



「ごめん、なさい……私……」



 やっと絞り出した声は掠れ、うまく言葉にならない。ナイトの手首を繋ぐ鎖がいやに目につく。


 自分が間違えなければ、ナイトがこんな目に合うことはなかったはずだ。

 浅慮の後悔が胸に降り積もり、悔しさの雫となって瞳からあふれてしまいそうになる。


 ところが——ナイトは首を横に振った。



「エレノアが、謝る……必要はないよ。あの、幻想獣使いコンジュラー──フェルドと……言っていたな。彼に……脅威へ……立ち向かおうとする、君の気持ちは……立派だ」



 たどたどしく言葉が紡がれる度に、彼の口角の端から鮮血がぽたりと流れ落ちた。


 何が、立派だと言うのだろうか。使命感を笠に着て、激情のまま行動しただけなのに。



「……どうして、ですか。どうして、隊長はいつも、私を責めないのですか……? こんな目にあっても──」



 エレノアはぎゅっと唇を結んだ。カラカラと喉の奥が乾き、心臓が大きく鼓動して胸元が痛む。


 滲んだ世界で、苦しげに息を吐くナイトの姿が見える。

 顔や腕の傷だけじゃない。おそらく内側にも相当なダメージを負っているのだろう。



(いけない、このままだと……)



 戦場で幾度となく目にした〝死〟を連想させる姿に、血の気が引いて行く。


 取り返しのつかないことをしてしまった。


 ほんの数日前、仲間に対し「結果的にうまくいけばいい」「〝復讐〟を果たすためなら何をしても構わない」と思っていた報いが、今ここにある。


 彼を死なせてしまったら、きっと自分を許せない。


 エレノアが苦悶に表情を歪めると、ナイトが苦笑するのがわかった。



「こんなのは……絶望、するほどの状況じゃ……ないさ。むしろ、こういう時こそ……俺の武器が、役に立つ。……大丈夫。心配するな、エレノア」



 彼の血に濡れた唇が、緩やかな孤を描く。まぶたは静かに開かれ、穏やかな翡翠色の瞳がエレノアを映した。


 今にも死にそうな顔をしているくせに、どうしてそんな風に優しく笑えるのか──。


 エレノアには理解できなかったが、これが〝守るために力を揮う〟と誓った彼の原動力、強さなのだろう。



「どうやって、打開するか……少し、考えてみるよ。君は、無理をしないで……休んで……」



 ナイトは粗い息を整えながら周囲を見回し、牢の構造を観察しているようだった。



「な……隊長こそ、休んでください! いえ、それよりも、怪我の治療を……!」



 思わず声を荒げたエレノアに、ナイトが微笑む。両腕の自由を奪われ、息をするのも苦しそうで死にかけているのに、彼に何が出来るというのか。


 にもかかわらず、翡翠色の瞳はまるで「ここが始まりだ」とでも言うかのような毅然きぜんとした光に満ちていた。



「アリィの……転移魔術が使えれば、簡単だったけど、ここの結界は……厳重、だね。外部への通信リンクベルも使えない。……となると、俺たちが……自力で何とかするしか……ない」


「……自力で……」



 エレノアは反芻するように呟く。


 落ち着きを取り戻して周囲を観察すると、狭い牢の壁には無数の鉄格子が並び、天井近くに小さな通風口があるだけ。兵の足音や囁き声が遠くに反響している。



(この状況を、本当に打開できるの……?)



 疑問が募る一方で、ナイトは折れない意思を掲げ、不屈の態度を体現していた。

 どれほど恐怖と絶望が迫っていても、笑みを絶やさず「大丈夫」と言い切る強さに胸を打たれる。



(最初は軽薄で軟派で、飄々と掴みどころのない男だと、思っていたのに)



 その内面は恐ろしく強靭だ。逆境にあってこれほどまで粘り強く、美しくいられる者を見たのは初めてだった。



(どうして貴方は、こんなにも……)



 エレノアはナイトの姿に、言い表せない羨望と嫉妬を覚える。

 闇の中で煌めく彼の銀色の髪シルバーブロンドが、希望の光のようだ。


 鎖に繋がれてなお、解放への策を練るために思考をめぐらせている彼の瞳が、眩しく見える。エレノアはつい視線をそらし、胸の指輪を撫でた。


 この指輪が奇跡の光をもたらしてくれれば──なんて、甘い考えがよぎるが、現実はそう都合よく出来ていなかった。



「……私も、考えます。今状況で、何が出来るのか……」



 一度は無謀さゆえに深みへ沈んだ身でも、まだ取り返せるはずだと信じたい。

 何より、こんなところで彼を死なせる訳にはいかなかった。


 ナイトが「助かるよ」と穏やかに笑みを返してくる。

 エレノアは這いつくばって彼の隣へ並び、冷たい壁に背を預けた。



(今は……生きて、ここを出ることだけ考えるんだ。余計なことは後回し。……この人と一緒に、帰るんだ)



 時間の知れぬ暗い牢獄。冷気に凍えそうな身体を、ほんの少しためらいながら彼へ寄せて、触れ合うわずかな体温に安堵を覚えた。


 遠くから響くうめき声と鎖の音を聞き、死のニオイが充満する中で、エレノアは思考する。


 生き残る術を──。

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