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第十話 姫騎士の真実──穢れた血統

 冷えきった石壁に背をもたれ、ナイトへ身を寄せながら──エレノアは瞼を伏せた。



(彼と話してわかったのは、ここが王国軍の拠点の一つである〝グランツ砦〟の地下牢だということ……)



 どこから漏れているのかわからない水音が、牢獄内に陰鬱な響きを与えている。


 床と壁から伝わる冷気が、じわりと身体を蝕む。魔術阻害インヒビションの影響もあって、体は十分に動かず、気を抜けば思考までも凍りついてしまいそうだった。



(……どうすれば脱獄できるの?)



 戦場で死を予感したこともあるが、このように囚われた経験は、初めてだ。


 視線を横へやると、壁に両腕を鎖で繋がれたナイトの姿がある。うっ血する瞼を閉じ、痛みに耐えるように肩で息をしていた。軍服は破れ、肌のあちこちに赤紫の痣が見える。



(酷い怪我だ。早く、治療しないといけないのに……)



 その手段が現状ない。彼が治癒の魔道具マディアナを所持していたが、地下牢にかけられた結界のせいだろう、作動しなかった。


 ナイトの口の端に血の跡がある。せめてそれだけでも拭おうと、エレノアは手を伸ばした。


 肌に触れると、彼の肩が小さく跳ね、ゆるゆると瞼が開かれる。



「あ……ごめんなさい。起こしましたか?」



 問いかけると、ナイトは虚ろな瞳の焦点をエレノアへ合わせ、力なく笑った。



「……大丈夫。ごめん、気を遣わせちゃったね……」



 口では「大丈夫」と言っているが、やせ我慢だとわかる。自分が無謀な選択をしなければ、彼がこんな状態に追い込まれることもなかったはず。


 そう思うと、後悔の念がまた胸を締め付けていく。



「……脱獄の手段、何か思いつきましたか? 情けないけど、私は……全然です。この牢は結界が強固で、リンクベルを含めた魔道具マディアナが一切使えない。魔術も……魔術阻害インヒビションがなかったとしても、多分、満足に扱えない」



 エレノアは呟き、拳を握り締める。無力感に心が覆い尽くされそうだった。



「……ん……そう、だね……。魔術阻害インヒビションは高位の魔術……だけど、永続するものじゃ、ない。もうそろそろ……切れる頃だと、思うよ」


「……はい。確かに、少しずつ体内のマナの滞りがなくなってきています」


「うん。枷が、ない状態なら……エレノアであれば、看守を……倒すくらいは、できるだろう」



 言葉を紡ぐ合間に「ふぅ」と苦し気に息を吐く音が聞こえる。あまり喋らせるのも怪我に障ってよくないのだろうが、彼の慧眼けいがんと知識はこの場に置いて唯一の武器だ。



「でも、肝心なのは、そこじゃなくて……俺たちが〝生かされている〟点に、ある。……何故、わざわざ魔術阻害インヒビションや、転移魔術という、高位魔術を使って……〝捕縛〟を、選んだのか……」



 言われれてみれば妙である。〝敵〟を殺すだけなら、このように手の込んだ真似をする必要はない。


 そこでふと思い出す。転移する前、あの男──フェルドという幻想獣使いコンジュラーが口走った言葉を。



「……『お嬢に言いつけられてる』……あの男は、そう言っていました」


「ああ……俺も、聞いた。フェルドは……君を捕えようと、していたんだと、思う。その〝お嬢〟の命令で」



 顔を上げるとナイトの翡翠色の瞳が真っ直ぐエレノアを射抜いていた。何かを探るような視線に、エレノアは息を飲む。



「〝お嬢〟というのは……彼の上官、あるいは……それに準ずる、権力者。どちらにせよ、王国の……中枢に近い、人物だろう。そんな人物が……君に、執着している」



 ドクリ、ドクリ、と鼓動が脈打つ。彼に心の中を見透かされている気がした。ブレることのない視線から逃れたいのに、何故か瞳を逸らすことが出来ない。


 エレノアは言い知れぬ不安に駆られて、形見の指輪を握り締めていた。


 これ以上、聞かないでほしい。──そう思うが、逃げ場はなかった。



「……エレノア、心当たり、ない?」



 冷たい牢獄に、低い声が反響する。疑問形だが、まるで確信を得ているかのような問いかけだ。


 心当たりなんて、一つしかない。


 誰かに話したことはないし、言わずに済むのなら胸の内に隠しておいて、墓まで持って行こうと思っていた秘密がある。


 自分に流れる血統。そのおぞましい真実──。



「隊長は……知って、いたのですか……?」



 問いを返す声が震えた。震えを抑え込もうと唇を噛んでいると、静かにナイトの瞼が伏せられる。


 エレノアには、それが肯定の仕草に見えた。


 彼が死にかけてまで自分を守ってくれたことを思えば、打ち明ける〝義理〟くらいはある。

 けれど、この秘密はエレノア自身も受け入れがたい現実だ。



(もし、話して隊長の態度が変わったら──)



 多分、それはあり得ない。けれど、怖かった。


 天井の隙間から滴る水滴が床へ落ちる音に、鼓膜がひりつく。まるで自分を嘲笑う涙のように聞こえた。


 「……エレノア」と名を呼ばれる。大切な者を愛おしむかの如き、優しい声色だ。



「怖がらなくて、いい。話したくないなら……それで、構わない。だけど、君がどれだけ、重大な秘密を抱えていようと、俺はもう〝味方になる〟と決めた」



 ナイトが先程と同じく、真っ直ぐ見つめて来る。


 味方になる──たったそれだけの言葉。どうして信用できようか。そんなの、思い上がりも甚だしいと笑い飛ばしてやりたかった。


 しかし──。



「……白状すると、利用するつもりで……いたんだけど、ね」



 彼は自嘲気味に笑う。裏切られ、利用されるのは世の常だ。


 だが、本気でそうするつもりだったなら、こうして命を懸けたりはしないだろうし、素直に口にするなんて馬鹿だと思った。



「……馬鹿な、人ですね……。そんなこと、本人を前に、口にすることじゃないですよ」



 思っただけのはずが、口をついて出ていた。ナイトが「本当だよね」と苦笑いをする。



(ずっと、自分と弟以外の人間は……みんな敵だと思って生きてきた。信じられるものは、己の剣だけだと……)



 〝リュミエール〟という〝身内〟ですら、自分を道具扱いしたのだ。

 なのに、ナイトは己の命を懸けてまで自分を救い、なおかつ責めもせず、味方だと言い切る。


 どうして、そんなに真っ直ぐでいられるのだろう。

 ナイトの強さが羨ましいと同時に腹立たしくて、エレノアは戸惑った。



「隊長は、大馬鹿者です」


「……はは、酷いなぁ」



 毒づいた後、短い沈黙が流れる。


 エレノアは乾いた喉を潤すように唾を飲みこみ、光の少ない視界でナイトを正面から見据えた。



「……私の、本当の名前は……エレアノーラ・シエロ・サングリア。サンクリッド王国の王族……その血統を、継いでいます」



 誰にも知られたくなかった。秘めて来た事実を口にしたとたん、心に押し込めてきた〝暗い記憶〟が一気に広がる。



「私の母ルチアは、前王の妹。父と呼んで慕ったのは、皇国の名門貴族〝リュミエール伯爵〟──ブライト・リュミエールです。……でも、本当の父親は違う」



 指輪を握る手に自然と力が籠った。


 母から出生の真実を聞かされた時を思い出す。あの時、エレノアは嫌悪感と強烈な復讐心に囚われた。自分の血統は忌むべきものと悟り、その認識は今も変わっていない。


 ナイトが見守るように言葉を待っている。

 エレノアは怒りで震えながら、口にするのも憚られる事実を紡ぐ。



「サンクリッド国王マグナス。あいつが、この血筋を生んだ。私は……マグナスの、穢れた娘……! この身には、悍ましい血が流れているんだ!」



 父と母と過ごした幼少期の記憶が脳裏に思い出される。

 在りし日の、幸せだった日々はもう戻らない。


 思いを馳せて、エレノアの胸の内にどす黒い感情が渦巻いた。



「マグナスが故郷を焼いた、父を殺した! 母は父を亡くして以降、心身を病み憔悴して……寂しく死んだ……!」



 どうして、両親が死ななければいけなかったのか。


 ──わかっている。すべて王国の、マグナスのせいだ。



「故郷と両親、愛したものを破滅に導いた元凶の血を、私は継いでいる……! それがどうしようもなく憎い……許せない!」



 自分がいなければ……と、何度、そう思ったかわからない。

 やり場のない怒りと喪失感は、いつもエレノアの心を蝕んだ。


 生きることが痛くて苦しくて、虚勢を張らないと己を保つことができず、存在価値を見出せない。


 そんなエレノアが思いを晴らし、生きて行くには復讐に走るしかなかった。



「だから、私は王国を──あの男を殺さなければいけないんだ!」



 一息に声を張り上げたエレノアは、粗く息を吸い込む。


 抑えることのできない激情が噴出してしまった。心の中はぐちゃぐちゃだ。


 こんな風に吐露するつもりはなかったのに、みっともない姿を晒してしまったと、エレノアは醜態を恥じて俯く。

 ナイトの顔をまともに見る勇気が持てなかった。


 昏い闇の蔓延る牢獄を、再び静寂が包み込む。


 冷え込んだ空気が頬を撫でた。怒りの炎は身を焦がすほど燃えているのに、寒い。



「……そうか。今ほど、君を抱きしめてあげられないことを、悔やんだことは、ないな……」



 沈黙を破ったのは、予想外に軽薄な台詞だった。


 けれど、弾かれたように顔を上げると、言葉とは裏腹にナイトの表情に遊びはなく、憂いを帯びている。



「エレノアは……長い時間、一人で、悩んで、傷ついて、苦しみながら……戦って来たんだろう? 寄る辺のない辛さは、よく、知ってる。頑張った分……よくやった……って、抱きしめて、あげられたら良かったんだけど……。

 こういう肝心な時に、格好つかなくて……ごめんね」



 彼は眉を下げて、困ったように笑った。澄んだ翡翠の瞳には、あたたかく柔らかな光が宿っている。


 エレノアは言葉に詰まった。


 この人は本当に、どうしようもなく優しくて、馬鹿な人だ。


 これまでであれば、突っぱねることのできた厚意も、こうまで言われては拒絶できない。


 エレノアは目頭に込み上げ、零れ落ちそうになる熱を堪えて言い放つ。



「……なら、胸を……貸してください」


「うん、どうぞ」



 迷うことなく即答したナイトに〝彼らしさ〟を感じつつ、エレノアはそっと近づいて行く。


 誰かに頼ることも、守られることも、考えたことはなかった。



(今だけ……少し、だけ……)



 ぬくもりを知ることに未知の恐ろしさを抱きながらも、ナイトの胸に手を添えて、顔をうずめる。


 錆びた鉄っぽい血の匂い。

 海を感じさせる塩っぽい汗の匂い。

 郷愁を思わせる土の匂い。


 そして、自分の瞳から流れ落ちた雫が混じり合った匂いが、すすり上げるエレノアの鼻を抜けていく。


 普通ならば不快に思えるそれが今は心地よかった。


 牢獄の冷たい空気に凍えていたはずの胸が雪融けを迎え、安らぎに包まれた。

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