──もう、十四年も前の出来事だ。
シュトラール領が王国の侵略を受け、妹のアイナが邸宅とともに炎に呑まれ、行方知れずになったのは。
毎夜ナイトを苦しめる悪夢の記憶。家族を亡くしたあの日のことは、鮮明に覚えている。
「アイナ……本当に、アイナなのか……?」
言葉がうまく紡げない。
「……ええ。信じられませんか? 私は一目見てわかりましたよ。ナイト兄様」
アイナがくすりと笑う。
記憶の中にある可憐な少女の面影を残しながらも、眼帯と軍服という装いのせいで、あまりにも変わり果てた姿だ。
「ようこそ、グランツ砦へ。こうして……こんな形で兄様と再会するなんて、夢にも思いませんでした」
アイナが生きていた。この奇跡を女神に感謝してしまうくらい、どうしようもなく嬉しい。
だが、どうして
理解が追い付かず、心が掻き乱される。
「隊長の、妹……?」と、エレノアの困惑する様子が横目に映ったが、ナイト自身も状況を受け止めきれていない。
「こんなところでお話をするのもなんですね、場所を変えましょう。後程、兵に案内させます」
アイナが長いシルバーブロンドをまるでマントのように翻し、踵を返す。その姿は、追い縋る間もなく闇へ溶けていった。
ヒールの高音が余韻となり、冷たい牢獄に響き渡る。
「隊長、どういうことですか? あの人が隊長の妹って……」
「……わから、ない。俺も、わからないんだ。アイナは、死んだはずで……でも、あれは、アイナで……」
眉を寄せて疑問を投げかけるエレノアに、ナイトは首を振った。
呆然と、アイナの軌跡を見つめる。
純粋に再会の喜びに浸ることなど、到底できはしなかった。
❖❖❖
「兵に案内させる」と言い残したアイナの言葉通り、ナイトとエレノアは看守と数名の兵によって、牢から出された。
かと言って自由を許されたわけではない。両手両足は鎖に繋がれ、目隠しをされる。
「ほら、歩け! アイナ様をお待たせするな」
おぼつかない足取りのナイトの背中を、兵がどんと押した。全身の傷がズキリと痛み、よろめく。
負傷した身では歩くのもしんどいと言うのに、酷な仕打ちだ。
「馬鹿、捕虜に無駄な傷を増やすなって命令だろ。あの方にお叱りを受けるのはごめんだぞ」
見咎めた兵の一人が窘めると、「チッ」と盛大な舌打ちが聞こえたが、それ以上暴力を振るわれることはなく安堵した。
(……アイナ)
妹の身に一体何があったのか──。
ナイトは未だ混乱する頭を抱えながら、冷え切った廊下を引きずられるように歩き、石造りの階段を上る。
上へゆくほど空気は温まっていくが、それが救いになるわけでもない。
灯された燭台の明かりを微かに感じつつ何枚もの扉を抜けて、ナイトとエレノアはとある一室に通された。
部屋へ足を踏み入れると、嗅ぎ慣れた香ばしい香気が鼻孔を掠めた。
次いで目隠しが外され、大理石が敷き詰められ床と、壮麗な柱に支えられた部屋の様子が視界に映り込む。
明かりはシャンデリア。悠々とした室内の壁際には本棚が並び、絵画なども飾られている。
応接室として使われているのだろうか。中央には品のあるテーブルと赤いダマスク柄のソファが置かれ、砦の一室にしては豪奢である。
「アイナ様、捕虜をお連れしました」
「ご苦労様。下がっていいわよ」
コーヒーカップを片手にソファへ座するアイナが兵へ視線を向ける。と、兵たちは恭しく頭を下げ、退出した。
アイナの背後にはフェルドが控えている。何とも異様な取り合わせだ。ナイトが眉をしかめると、アイナと目が合った。
「不便を強いてごめんなさい、兄様。でも、私にも立場があるの。わかって下さいね」
カップをソーサーへ戻したアイナが、胸の前で手を組む。
翡翠色の瞳は軍人らしい冷徹な光を孕んでいるが、どことなく哀しみが滲んでいる気もする。
(立場……まさか、お嬢って言うのは……アイナのことなのか……?)
フェルドを側に置き、堂々と兵へ指示を飛ばす様子からして、妹は王国軍でも名のある地位にいることが窺える。
しかし、何がどうなれば、そのようなことになるのか。
疑問が次々と湧き上がり、動悸が激しくなってゆく。
ナイトは夢の続きを見ているような、悪夢に囚われた心地で、アイナを正視できなくなる。
「アイナ……どうして、王国に……」
立ち尽くしたまま、震える声で問いかけた。聞きたいことはたくさんあるが、どう話せばいいのか整理がついていない。
アイナが短く息を吐いた。瞼を伏せ、唇を噛む仕草に物悲しさが漂う。それが、妹の苦労を物語っているようで、ナイトの胸を抉り痛みを与える。
「兄様の言いたいことはわかるわ。私たちの故郷を滅ぼしたのは、他でもない王国だものね」
そう……そうなのだ。あの惨劇の渦中にいて、王国への憎しみを募らせることはあったとしても、身を置くことなど考えられない。
あるいは、そうすることで何かを為そうとしているのか。ナイトはアイナの意図を探るように視線を送った。
するとアイナは立ち上がり、毅然とナイトの傍へ歩み寄って──伸ばされた手が頬に触れる直前、ピンクブロンドが眼前で揺れた。
間へ割り入った
「……エレノア?」
「すみません、隊長。お二人がご兄妹なのは、見た目にもわかります。ですが、いくらご兄妹とはいえ、彼女は敵国側の人間です。貴方に何をするかわかりません……!」
背を見せて語るエレノアの声は、戸惑い混じりだ。彼女も動揺しているのだろう。
それにも関わらず、エレノアは自分を守ろうと行動してくれている。こんな分の悪い状況で、もし何かあったとしても、勝ち目なんて薄いのに。
身を挺して己の前に立つ凛々しいエレノアの姿に、胸が脈打つ。
「フフ。慕われているんですね。でも、そんなに警戒なさらないで? 兄様のお怪我があまりに酷いから、治療しようとしただけ」
アイナがやんわりと微笑み、反論する間を与えずエレノアを押し退けた。
するりと伸びた指先が、ナイトの頬に触れる。
氷のように冷たい。触れられた瞬間、背に怖気が走ったが、すぐに温かな光がアイナの手のひらから発せられた。
光が身体に染み入り、たちどころに傷を癒し痛みを取り除いてゆく。
「治癒の魔術……。アイナ、使えるようになったのか」
治癒の魔術は、素養がなければ使うことができない。かつ魔術の中でも最も高度な技術を必要とする。素養があっても使えない者が多く、ナイトの記憶の中にある妹もそうだった。
「驚きました? ソフィアに教わったんです」
「ソフィア?」
聞き覚えのない名前だ。少なくとも、自分たちの共通の知人ではない。
「……私の恩人ですよ。王国のね。全てを失った私にとって、ソフィアは唯一の家族だった。彼女に救われたからこそ、私は今ここにいる。けれど──」
アイナが触れていた手を離し、表情に影が落ちる。
「ソフィアは、殺されました。〝誰に〟とは、言わなくてもおわかりになるのではなくて?」
「……皇国との戦争が……原因か」
「ええ。皇国軍がソフィアと私の暮らしていた村を焼いたの。あそこは軍と何の関係もない、ただの農村だったのに。皇国の兵は容赦なく住民を虐殺して、ソフィアも……!」
じっとりとした情念が滲み出る声、見慣れた炎の揺らめきを宿す瞳。
これらの示す感情の意味を、ナイトは嫌というほどに知っている。
──そして、アイナの言葉で思い出す。
過去、復讐心に囚われた己が強硬した〝苛烈なる戦術〟で、無慈悲に多くのものを、戦火の海に沈めた事実を。
(違う……そんなはず……そんなはずは、ない。これは、ただの偶然……偶然だ)
だが、そんなことはありえないと否定しようとしても、記憶の断片が邪魔をする。
嫌に胸がざわつき、ナイトが拳を握りしめると、胸の内を見透かしたようにアイナが笑った。お世辞にも愛らしいとは言えない、薄暗い感情の表れた笑みだ。
「アイナ、君は……」
何をどこまで知っているのか。
……続く言葉が音にならない。確信を得るのが、怖かった。
ナイトは唾を飲み込み、視線を逸らしてしまう。
その仕草が逆に、アイナへ確信を与えるとも知らずに、罪と向き合うことから逃げてしまった。