目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第十四話 凍りつく刻と終わらぬ追跡

 アイナとの取引が成立し、捕虜の身から解放されたナイトだったが──ナイトは今、エレノアとともに、夕暮れに染まる荒涼とした大地を駆けていた。


 追撃者から逃れ、生き残るためひたすらに。


 草木はほとんど見当たらず、岩ばかりが目につく。乾いた地面は踏みしめるたびに土埃を上げた。


 砦の正門を出たところで、獣のような三白眼を光らせる男が牙を剥いたのである。



「ここまでがお嬢のご厚意、ってやつだ。先日の借りを返すついでに、オレがぁケリをつけてやる!」



 振り返ると、灰汁色あくいろの城砦を背にしたフェルドがニタリと口角を上げた。


 はためく焦げ茶のローブの下に、生々しい傷痕の刻まれた浅黒い肌が覗く。包帯の巻かれている箇所も見受けられるが、男は傷の痛みなど感じていないのか、機敏に追い縋ってくる。


 フェルドの背後で魔獣の赤い瞳が、無数に瞬くのが見えた。ナイトはそれらを睨みつけながら、短く鋭い息を吐き出す。



「……やっぱり、そう来たか」


「〝命の保証はする〟と言っていたのに……!」



 エレノアが眉を寄せ、拳を握り込んだ。


 約束はいとも簡単に反故にされた。

 しかしながら、ナイトはこのような展開になることを予測していた。



「巧妙な言葉騙しだね。アイナの約束は〝砦から出る〟まで。つまり、砦の外へ出たあとに何が起ころうと、関知しないってことさ」


「女神様への誓いまで引き合いに出しておいて……こんなの、詐欺同然ではないですか」


「交渉事での常套手段だよ。それに、アイナは祖国に反旗を翻した身だ。こちらの常識は通用しないと考えた方がいい」


「く……っ!」



 エレノアが苦虫を嚙み潰したような表情で、胸元に手を置いた。そこに在るはずだった指輪はもうない。


 辛酸をなめて生還の機会を得たと思っていただけに、彼女の悔しさは一入ひとしおだろう。



「……とは言え、あの状態で砦から脱出するのはかなり厳しかったから、いい方向に考えよう。エレノア、体の調子はどう?」


魔術阻害インヒビションの影響は抜けています。万全とは言い難いですが、戦えと仰るなら全力で戦います」



 エレノアが紫黄水晶アメトリンの瞳に力強い輝きを宿して言い切る。失態を犯した負い目からだろうか。「何があろうと覚悟は出来ている」とでも言い出しそうな面持ちだ。



「気持ちは嬉しいけど、生き残ることが優先だよ」


「…………わかっています」


「ならいいんだ。間違っても一人で何とかしようと突っ走らないようにね」



 この際、不自然な間があったことには目をつむる。先手で釘を刺しておけば、これまでのような無茶はきっとしないはずだ。



(まあ……今に限ってはエレノアよりも、俺の身体が持つのかが問題だけど)



 怪我は、アイナの治癒魔術で見た目には完治しているが──血を流しすぎた。


 先ほどから倦怠感、動悸、めまいなど、貧血の症状が酷い。牢では満足に食事と睡眠を取れていなかったので、身体が疲労を訴えている。


 精神的にもあまり良いとは言えない状態だ。



(リンクベルも繋がる様子はないし、早々に切り抜けないとまずいな。今ある手札は──)



 焦燥に駆られたナイトが、いつもより回転の悪い頭を働かせようとした矢先、



「逃げてばかりいねぇで……り合おうぜぇ!」



 昂ったフェルドの声が虚空より響き渡り、ナイトとエレノアの間へ迅雷の如き蹴撃しゅうげきが落ちた。


 地面が割れて土煙が舞う中、ナイトはよろめき転がりながら身をかわす。逃れた先は、偶然にもエレノアと同じ方向だった。



「隊長、大丈夫ですか?」


「……うん、何とか、ね。まさかこの距離を跳んで来るなんて、非常識にもほどがある」



 前に戦った時も感じたが、恐るべき身体能力だ。立ち上がろうとするナイトを庇って、エレノアが臨戦態勢を取る。



「ようやく足を止めたなぁ。見てのとおり、連れてねぇ。お前ら二人にはちょうどいいハンデだろ?」



 フェルドはあざけり笑いながら、これ見よがしに両手を広げた。


 その横には魔獣たち——真っ黒な体毛に三つ目が特徴の死黒鼠モルトラットと、燃え尽きることのない炎を纏う火鼠カソが群れをなしている。「キィキィ」と、こちらを威嚇する耳障りな金切り声を絶え間なく発して。


 ざっと見た限りでも、二十は下らない数の群れ。ナイトは頬を引きつらせた。



「これがハンデだって? 随分と熱烈なお見送りだと思うけど、俺の見間違いかな」


「ご心配なく、私の目にも隊長と同じものが見えていますから。……余程、前回の敗北が堪えたのでは? 隊長の策を恐れている証拠です」



 剣を抜いたエレノアが横目でナイトに目配せしながら、フェルドに挑発を投げる。



「なるほど、そう言うことなら納得だ。こう期待されちゃ、応えないわけにもいかないね」



 驕りは身を滅ぼす毒となるが──気概だけでも負けるわけにはいかないと、あえて虚勢を張っているのだろうエレノアに合わせて、ナイトも軽妙に返した。


 フェルドは鼻で笑うだけで挑発に乗る様子はない。


 ナイトはこの場を切り抜けるために思考を巡らせつつ、立ちはだかる敵を見据えて立ち上がる。



「エレノア。少しの間、フェルドと魔獣を引き付けて欲しいんだけど、いける?」


「……何か、策があるのですね?」


「そんな大層なものじゃないよ。勝率は五分五分の急場しのぎ。だけど、上手くいけば今よりずっとマシな状況になると思う」


「一か八か……ですか」


「そ。こういう博打は好きじゃないんだけどね」



 肩をすくめて自嘲気味に笑うと、エレノアのピンクブロンドが横に揺れた。



「いえ、悪くない賭けだと思います。時間稼ぎは任せてください」



 夜へと向かう荒野の寒々とした空気が肌を突き刺す中、ナイトはエレノアと頷き合った。金の彩りが差す紫の瞳が、希望を失うことなく輝いている。


 こんな時だと言うのに「綺麗な色彩だな」と、思わず惹き付けられてしまう。が、惚けている時間はない。



「任せたよ。でも、深追いはしないように。さっきも言ったけど、君の命が大事だからね」


「了解です、隊長。……行って来ます!」



 銀の煌めきを放つ刃を水平に構えて、エレノアが地を蹴った。彼女はしなやかに、駿足でフェルドに迫りながら『女神ルクスよ、我に汝の加護を──』と詠唱うたっている。



「ククッ、策を弄する算段がついたみたいだな? それでこそ楽しみ甲斐がある。来い!」



 フェルドが手招きをして構え、両脚に炎を纏わせた。今回は最初から手加減する心積もりがないらしい。


 ナイトもまた、太腿のホルスターに納めた小型のマナ装填銃を引き抜き、胸に忍ばせた懐中時計型の女神の遺物アーティファクトを握り締め、行動に移る。



(手元にあるのは、治癒メディと攻撃の魔術の込められたいくつかの魔道具マディアナと、この女神の遺物アーティファクト〟──〝凍結と沈黙の世界クロノエテルネル〟のみ)



 最大の防御である守護結界ラプロテージュ魔道具マディアナは使い切ってしまった。これだけでは、あの数の魔獣と勇猛なフェルドを相手に、正攻法で挑んでも負けは見えている。



(不利な勝負は逃げの一手だ。闘争を望むあいつに付き合う義理はない)



 前方で牽制に飛び出したエレノアの放った光の魔術が炸裂し、魔獣を翻弄する。


 フェルドは悠々と魔術から逃れ、楽しそうに舌なめずり。瞬時にエレノアとの距離を詰め、鋭い旋風のような回し蹴りを繰り出した。


 それを素早く身を反転させたエレノアがかわす。反撃に、半歩踏み込んで斬撃をお見舞いしている。


 一進一退の攻防だ。それが繰り広げられている合間に態勢を立て直した魔獣がエレノアを標的と定め、まとわりつくように襲い掛かり始める。



(さあ、ここからが勝負だ……!)



 ナイトは手の中にある女神の遺物アーティファクトに意識を向けた。

 この力は大きな代償を伴うが、ここで使わない手はない。



(拷問に等しい痛みだろうと、耐えてみせるさ。それで救えるものがあるなら、何度でも──)



 ナイトは覚悟をもって願う。



「女神ルクスよ、その奇跡を今一度ここに……体現せよ!」



 高らかな声に女神の遺物アーティファクトが応える。熱を持って激しく発光し、次の瞬間。


 「ゴーン」と言う鐘の音が耳の奥で鳴り響き、世界は凍り付いた。


 自分以外の存在、対峙するエレノアとフェルドも魔獣も──すべての時が止まり、色彩と音が失われた世界。


 ナイトは代償に蝕まれ、痛みで悲鳴を上げる身体に鞭を打ちながら、歯を喰いしばって足を進める。


 まずはエレノアを女神の遺物アーティファクトの庇護下へ置くため、歩み寄って彼女の肩を叩く。


 すると、エレノアに色彩が戻り、雪解けを迎えて〝時〟が動き出した。


 「エレノア」と優しく名を呼ぶと、彼女は弾かれたようにナイトを見やり、瞠目する。



「……隊長? これは……」



 エレノアが瞬きを繰り返して、視線を彷徨わせた。


 白黒の風景。音もニオイも感じられぬこの奇妙な世界に、さぞかし戸惑っていることだろう。



「ごめんね、説明してあげたいんだけど、時間がない。風纏加速レジェ・レゼールの魔術を。すぐにここを離脱するよ」


「わ、わかりました」



 ナイトはエレノアが惑いながらも頷くのを見届けると、内ポケットに忍ばせた装飾品をいくつか取り出した。


 それぞれ、グラスヴェントエレクトフェン、スティーリアの攻撃魔術が込められた魔道具マディアナだ。


 これを躊躇なく空へ向かって投げる。ナイトの手から離れたそれは、途端に〝時〟の流れから隔絶され、周囲の風景と同じく制止した。


 ちょうど、フェルドの天頂点あたり。狙い通りだ。


 今度はそこへ照準を定めた銃口を向けて──。



「エレノア、走れ!」



 引き金を引くのと同時に、叫んだ。


 パァン、と小気味よい破裂音を合図に、エレノアが走り出す。ナイトもネクタイピン型の魔道具マディアナを発動させ、新緑の風を纏ってその後を追う。



「……ぐ、っぅ!」



 走り出した瞬間、喉の奥から熱いものが口内へ込み上げる。広がるのは、鉄の味。


 それが何であるのかは考えるまでもない。


 発動の限界点はとうに超えているのだ。



(それでも、今だけは……足を、止めるわけには、いかない……!)



 ナイトは口を引き結び、ギリッと奥歯を噛み締めて、痛みなど忘れたように走る。


 艶やかなピンクブロンドを見失わないよう視界に留め、我武者羅に。


 ただただ、足を動かし続けて稼いだ距離は幾許か。およそ計算する余裕すらなく、ついにナイトの身へ耐え切れぬ波が押し寄せた。



「──う、あああッ!」



 全身を内側から焼き尽くし、数え切れぬほどの槍で突き刺し、食い破るような苛烈な痛み。


 これ以上は危険だと、本能が警鐘を鳴らしている。意識を保つのすら難しく、ぐにゃりと景色が歪む。


 そこに至ってようやく、ナイトは女神の遺物アーティファクトの発動を止めた。


 刹那、世界が鮮やかに染まり、ゆるやかに時が動き出す。


 遠くで、置き土産に残した魔道具マディアナと銃弾が邂逅し、瞬間的に莫大な魔力の奔流を爆発させる轟音が鳴り響いた。


 驚愕と目を見開いたエレノアが振り返る。ナイトはそんな彼女に、口角を上げて笑って見せた。



「逃げるが……勝ち、だ……!」



 淡い蒼白い光が音のした方角から溢れている。今頃、フェルドたちはあの輝きに飲まれているのだろう。


 結実まで身体が負荷に耐え得るかは大きな賭けであったが、無事に山を越えたと言える。

 陽光にも似た勝利の輝きを感じて、安堵のため息をもらす。


 ──そこで、気を緩めたのがいけなかったのだろう。


 ナイトはふっと意識を刈り取られ、思考が闇の中へと沈んだ。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?