待ち合わせの居酒屋につくと、個室の前に整然と並べられた男性用の革靴が置いてあった。磨き込まれたその靴は、鈴木の几帳面さを物語っているようだった。
早苗は、その靴を静かに見つめる
ドク…ドク…ドクドク…ドク……
とリズムが早くなっているのを感じる。
意を決して扉を開けた。
「ごめんね。お待たせ、待った?」できるだけ明るい声で声をかけた。
「おう、大丈夫。お仕事おつかれさまでした」鈴木も優しい笑顔で返す。
「生でいい?あと鉄板焼きそばと…出し巻き卵」
「…うん。ありがとう」
その笑顔は別れる前と変わらず、早苗の心を温かく包み込んだ。まるで、時間が止まっていたかのように二人の間には以前と変わらない穏やかな空気が流れた。
「元気だった?」
「…元気だよ。楠木は?」
「私も元気だよ。仕事はどう?」
「最初は予想外の出来事で1年くらい支障が出たけれど、今は取り戻して軌道に乗りはじめたよ。ただ当初の計画より遅れているから、向こうの生活もあと1~2年続きそう」
「…そうなんだ」
当たり障りのない会話が続いた。しかし、その何気ない会話の中に、二年半の月日が流れたことを感じずにはいられなかった。
特に、鈴木の口から出た「予想外の出来事」という言葉。
それは、早苗と鈴木が別れる原因にもなったあの疾病のことを指しているのだろう。
しかし、鈴木はそのことを言葉にしないように、「予想外の出来事」という言葉で濁した。早苗も、そのことに触れるのは避けた。二人の間には、言葉にできない複雑な感情が横たわっていた。
鈴木は、現地の仕事の状況も教えてくれた。現地の人は勤勉で勉強熱心だが、自分の意見は絶対に曲げず主張が非常に強いため、マニュアルがあっても自分のやり方を貫こうとするので調整が大変なのだと少し苦笑いを浮かべながら話してくれた。
その話を聞いていると、鈴木は異国の地で様々な困難に立ち向かいながら前を向いて新しい道を切り拓いているのだと感じた。そんな鈴木の姿は、早苗にとって嬉しい反面少し寂しくもあった。鈴木は前を向いて進んでいるのに、自分だけがまだ失恋の傷に浸っているような気がしたのだ。
「鈴木は前を向いていてすごいね、私なんか何も変わっていない…」と、早苗は珍しく弱気なことを口にした。
『楠木…。』
早苗が珍しく弱気なことを言うので、鈴木は、思わず引き寄せて抱きしめたいという衝動に駆られた。
付き合っていた頃なら迷うことなくそうしていただろう。しかし、今は違う。二人の間には二年半という空白がある。
鈴木はぐっと堪え、「そんなことないよ…」とだけ言った。
『自分も普段の生活は変わっていない…』
『あの頃と、何も…』心の中でそっと答える。
早苗と同じように、鈴木もまだ過去の思い出に囚われている。しかし、気心知れて話せる友人は近くにいない。異国の地で一人腐らず這い上がるには仕事に没頭するしかなかった。
心折れずに生きていくためには仕事しかなかったのだ。
会話は続き料理やお酒も進んだ。しかし、二人の間には時折沈黙もあった。
その沈黙は、気まずいものではなくお互いを意識しているからこその緊張感を含んだものだった。
何度か、鈴木がトイレに立つことがあった。そのたびに早苗は自分の側の扉が開かないかと密かに期待した。
『合鍵を受け取った日のように、もしかしたら鈴木が何かを伝えに来てくれたら…』
しかし、開くのはいつも鈴木側の扉ばかりだった。
その度に早苗は小さな落胆を感じ、その悲しさが顔に出ないように必死に努めた。
時間はあっという間に過ぎ、帰る時間になった。二人は荷物をまとめ始めた。
個室の扉を開けようとする鈴木。
『このまま帰ってしまったらもう会えることはないかもしれない…。あの時は、鈴木が来てくれたけど…今度は私が動く時だ…。』
早苗は意を決して、鈴木の腕を掴んだ。
「ねえ…」早苗の声は、少し震えていた。目に涙が滲んでいるのが分かった。
「ねえ、私たち…もう本当にこれで終わりなの…?もう逢うことは出来ないの…?」