居酒屋で鈴木の腕を掴んだ時のあの衝動。
それは心の奥底に押し込めて、押し込めて、押し込み続けてきたもう後悔はしなくないという感情の表れだった。
電話越しに別れを告げられたあの日から、早苗の心は凍り付いていた。
鈴木の事情も優しさも頭では理解できた。でも、心がどうしても納得できなかった。
なぜこんな形で終わらなくてはいけないのか。なぜもっと一緒にいられなかったのか。後悔と悲しみ、そしてやり場のない怒りが、早苗の心を蝕んでいた。
『……もう二度とあんな思いはしたくない。もう二度と後悔したくない。……このまま何も言わずに気持ちを伝えずに別れてしまうのは絶対に嫌だ!!!!』
もし今日鈴木に会えていなかったら、きっと一生後悔していただろう。だから勇気を振り絞った。個室を出れば人目が気になり動けなくなるだろう。チャンスは今しかない……。そう思って腕を掴んだ。
感情が高ぶり思いのほか力が入りすぎて、万引き犯を捕まえる警察官のようになってしまった。
鈴木は驚いて目を見開き固まっていた。赤の他人だったら鈴木は万引き犯そのもので「まさか……見つかるなんて」という顔をしていた。
早苗は鈴木に自分の気持ちを伝えたかった。
「ねえ、私たち……もう本当にこれで終わりなの……?もう逢うことはないの……?」
あの別れの電話からもう1年半近く経つと言うのに本当に終わりなのかと尋ねた。
連絡を取ることがなくなり、今日も偶然出会わなければ今後、顔を合わせることもない。預けてあった合鍵の部屋はすでになくなっている。
これが普通の恋愛だったら当の昔に終わった関係だ。何を今更という話である。
しかし、鈴木からの返事は違った。
「……今は……まだ分からない……」
その言葉が曖昧だが微かな望みにも感じられた。そして、泣いている早苗の肩に置かれた鈴木の温かい手。
その感触が早苗の心を激しく揺さぶった。
長い冬眠から目覚めたばかりの動物のように、凍っていた心がゆっくりと溶けていくのを感じた。懐かしくそして切ない、二年ぶりに感じる鈴木の温もり。早苗がずっと待ち望んでいたものだった。
身体中が熱くなるのを感じた。
今、全身の血液がドクドクドクとすごい勢いよく巡り巡っている。心臓の鼓動は早まり、感情も昂ぶり身体中が震えている。
早苗は、温もりをしっかりと確かめたくて置かれた手に自分の手を重ねた。
お互い何も言わず、重なった手を静かに見つめている。周りの音も人の気配も全てが消え二人だけの世界になった。
言葉では言い表せない、愛情、切なさ、後悔、そして、かすかな希望……様々な感情が入り混じり早苗の心をかき乱した。
しかし、その場では何も起こらなかった。
しばらくすると鈴木がもう片方の手で重ねられた早苗の手をそっと外し、肩からも手を離した。
そして、静かに店を出た。
内心、少し落胆していた。
『何か一言でも、鈴木から気持ちを伝えてくれたら……。』
早苗の右肩には、まだ鈴木が置いた手の温もりが残ったままだ。
『ねえ?鈴木?……何に対して、今はまだ分からないの?現状がハッキリしないまま、付き合うことに対して?それとも……私への気持ち?』
鈴木に問いたかったが、言葉にする勇気がなかった。そして、その返事を聞くのも怖くて早苗は右肩に目をやった。
夏の生ぬるい夜風が温もりをぼかしていく。
早苗は鈴木の三歩後ろを歩きながら先ほどの言葉を反芻させていた。