しかし、結局、その場では何も起こらなかった。しばらくすると、鈴木がもう片方の手で重ねられた早苗の手をそっと外し、肩からも手を離した。
そして、静かに店を出た。内心、少し落胆していた。
何か一言でも、鈴木から気持ちを伝えてくれたら…。
早苗の右肩には、鈴木の熱がじんわりと残ったままになっている。
駅までの道のりを歩きながら、早苗の心は再び激しく揺れていた。
肩に置かれた鈴木の手。あの時、確かにお互いの気持ちを感じあえたような雰囲気があった
しかし、鈴木はそれ以上何もしなかった。
『肩に置かれた手は肯定とも取れるし、何もしないのは否定とも取れるよなぁ…。』
曖昧な態度が、早苗の心を 不安にさせた。
再会できたことへの喜び、そしてまた会えるかもしれないという微かな希望。
その一方で、逢えても、もう以前のような関係には戻れないかもしれないという可能性も、早苗の頭の中をよぎっていた。二年の歳月はあまりにも長すぎる。お互いに、変わってしまった部分もあるだろう。以前のように、無邪気に笑いあうことはもうできないかもしれない。様々な心境が入り交じり、早苗の心は、複雑な感情でいっぱいだった。
鈴木はホテルを取っていて、早苗の最寄り駅からも近かったので二人は同じ電車に乗った。短い電車の時間だが、ひどく長く感じた。電車の中では、無言で私は窓から見える景色を見ていた。正確には、見たふりをしていた。
煌びやかな街頭が光る繁華街を抜け、河川へと移りポツポツと等間隔に光る街灯。
その光景は、どこか寂しげだった。寿命なのだろうか、そのうちの一つが点滅を繰り返しながら、心許なく微かに灯っている。その光が、早苗には鈴木との今後の関係を示すように見えた。
『どうか消えないで…。このまま照らし続けて。どうか、鈴木との関係も途切れないで…』
早苗は、そんなことを想いながら、心の中で必死に願った。
何も言わずに降りる私たち。改札前での、短いやり取り。
「今日はありがとう。もし次帰ってくるときは連絡もらえると嬉しいな」
「………分かった。連絡する」
一瞬の間があったものの、その言葉は早苗の心に一縷の希望を与えた。
今回のように黙って帰国するのではなく、次は連絡をくれる。また会えるかもしれない。
そう思うだけで胸が温かくなった。でも、まだ不安もあった。「次」とはいつ来るのか…本人たちが望んでいても「次」というのは確約がない不明確なものだ。それまでに鈴木がまた罪悪感に苛まれ気持ちが変わってしまうかもしれないことが怖かった。
「ありがとう。ずっと逢いたかったから、鈴木とこうしてまた逢えて嬉しい」
「うん…。俺も。もう逢えないかもしれないと思ったから逢えてよかった」
早苗は、精一杯、自分の思いを伝えた。
『もう逢えないかもしれないと思っていた。』それは早苗も同じだった。
だからこそ、今日こうして再会できたことが奇跡のように思え、喜びで溢れていた。
早苗は静かに涙を流した。
鈴木に逢ってから、何度も泣きそうになるのを必死に我慢していた。
しかし、居酒屋で店を出る前に腕を掴んだときの事、そして、今。
再び逢えたこととまた逢えるかもしれないという喜びで、もう涙をおさえられなかった。
今までの悲しい涙ではなく、喜びとかすかな希望も含ませた今日に自然と涙が流れ続け、そっと鈴木の胸に顔を伏せた。
人前で甘えるなんて、今までなかった。堂々と抱き着いたりいちゃつくのは、幼いと思っていた。しかし、今の早苗は、素直な気持ちに従って鈴木の温もりを感じていたかった。
鈴木がそっと早苗の頭を撫でる。その手の温かさが早苗の心を満たしていく。
『このまま、もっと鈴木を感じていたい。ずっと鈴木の側にいたい…』
鈴木の手の温もりや、胸の鼓動、声。それらが、空白の二年を少しずつ埋めていくかのように、早苗の孤独や喪失感など、心の傷を癒していく。 乾いた大地に水が染み込むように、早苗の心に、鈴木の温もりが浸透していく。
『鈴木と離れたくない。ずっとこのまま、こうしていたい…。今この時だけでなく、このままずっと日本にいて、鈴木との日々を楽しみたい…』
心の底からの叫びだった。このまま鈴木とどこかに行ってしまいたい、そんな夢見がちな考えも頭によぎった。
でも、このままでは駄目だ。早苗は、心の中でそう思った。
鈴木は、否定も肯定もしていない。思いはまだあるが、それは過去に付き合った恋人への一種の慰めなのかもしれない。そして、自分の言葉で前を向いて頑張っている鈴木を、邪魔するようなことはしたくない。と思った。
両手で鈴木の胸から身体を引き離した。足が小刻みに震えている。
『ありがとう。まだ心の中に鈴木はいるし、簡単に消えないけれど、仕事を一生懸命頑張っている鈴木を困らせるようなことはしないから、私…もう待ち続けるとか言うの辞めるね…。だから…また日本に来た時は逢いたい…日本にいる時は、鈴木の側にいさせて…。」
早苗は、必死に伝えた。
泣かないように、口角をあげてから少し早口になってしまったが伝えた。
『待ち続けるとは言わない。』それは早苗にできる精一杯の愛情表現だった。
鈴木の負担にならないように、彼のことを想っての言葉だった。しかし、鈴木のことが好きで側にいたい、という気持ちも言わずにはいられなかった。矛盾していると思ったが、自分の心を全てさらけ出すように早苗は正直な気持ちを伝えた。