鈴木が旅立ってから、春が来て夏を過ぎ秋も終わりを迎え季節は冬になっていた。
まもなく1年を迎えようとしている。この1年は色々とあった。
早苗は、この1年の出来事を振り返っていた。
『始まりは鈴木からの【業務外】という件名のメールだったな。飲みの誘いかと思って開いたら、本文に「合鍵を預かってほしい」と書いてあり驚いて飲んでいたお茶を拭きこぼしたんだよな。何事?と戸惑いながらも向かった居酒屋で、いつも通りに励まして見送りの言葉を言ったら…帰り際、鈴木が私側の扉を開いて隣に座ってくるから酔っぱらったと思ってからかったら、そのまま抱きしめられたんだよな…ビックリしたけど、それ以上に嬉しくてそのまま…………なんかあの時、お互い情熱的で必死だったな…』
思い出しなんだか照れ臭くなった。
『それから休みの日は、鈴木の家でソファベットに腰を掛け恋人繋ぎや後ろからハグされながら、仕事のこと、子供の頃のこと、家族のことなどいろいろな話をしたな。後ろから抱き着くと鈴木の息が首元にかかってくすぐったかったけど、反応したらまた悪戯してきそうだから必死に堪えていたな。一人暮らし用の狭いキッチンで一緒に料理をしてご飯を食べて…好みの味を知りたくて、いっぱい味見をさせていたな。豚汁が出ると喜ぶので最後の方が豚肉を使った料理ばかり作っていたな…。』
1年前のことだというのに、早苗は鈴木の部屋で過ごしたことをつい先日のことのように思い出す。
そのあとは…。早苗の顔が曇る。
3月に一時帰国の予定で旅行の計画をしていた。二人での旅行は初めてでお互い気になるところを調べたり舞い上がっていた。
しかし、不測の事態で一時帰国は幻となった。3か月に一回は帰国予定だったが長期の遠距離恋愛となってしまっていた。そして今もなお、状況は変わらず会えていない。
仕事が終わり、家でくつろいでいると鈴木からテレビ電話がかかってきた。
いつもと変わらない様子で話し始める。出掛けられず家にこもりがちなので顎周りが少しふっくらとした鈴木が画面越しから顔を出す。
「今日さ、合鍵の話をするために二人で飲みに行った日だな」
『鈴木って元々連絡マメじゃないから記念日を覚えているとは思っていなかった…』
早苗は驚いたが「そうだね」と相槌を打った。先ほどあの日のことを思い返していたばかりだったので嬉しくなった。
「俺さ…楠木のこと、入社して彼氏と別れてすぐ頃から狙っていたんだよ」鈴木の言葉に、早苗はさらに驚いた。
『狙っていた…????一体どういうことだろう?』
「だけど全然気が付かないの。宅飲みで買い出しとかを口実に二人きりにして欲しいって事前に先輩たちにお願いしてたのに、全然気が付かないの」鈴木は、少し拗ねたような口調で続けた。
「え?先輩のために開いていたんじゃないの?」
早苗は、本当にそう思っていた。その飲み会は、鈴木の先輩が早苗と仲のいい先輩を気になっているから誘ってほしいと聞いていた。
「俺と楠木を接近させるのが本当の目的。先輩には、俺からそういう設定にしてほしいって頼んでいたの。それなのに、自分は脇役だからって一生懸命華を持たせようとしたり、二人になっても楠木、先輩の話しかしないから、言える雰囲気じゃなかった。少しは勘づけよ、と思ったけど、それも楠木らしいなと感じて、そのまま同僚でいることにした」
早苗は、鈴木の言葉を一つ一つ反芻しながら過去の出来事を思い返していた。
確かに、あの飲み会では買い出しに行こうとすると、『場所が分からないだろうから…』と先輩が言い、鈴木が着いてきてくれた。でも、まさか鈴木が頼んでいたことだったとは…。
「全然気が付かなかった。だって鈴木、前の彼女は小柄で妹キャラの清楚系の子だったんでしょ?それで私、自分と正反対だから鈴木の恋愛対象になるのは無理だなって思って諦めただよね」早苗は、少し照れながら、当時の心境を打ち明けた。
『楠木には、彼女がいたことを話さなかったのに知っていたのかよ…』
鈴木は舌打ちしたい気分になった。
「なんだよそれ…。見た目だけで選ばないよ。楠木のことは、本当に気になっていた。
だけど、脈がないと思って他の子とも付き合った。結局長続きしなかったけど…。そうしたら海外赴任の話が来て、このままただの同僚でいたら海外行ってる間に他の男に取られるかも…。もしかしたら結婚しているかもと思って合鍵の話をしたんだよ。断られてたらキッパリ諦めようと思ったら、『了解』って。だから、俺の気持ち分かってそのうえでのOKなのかと思って期待込めて会ったら、全然気が付いてなくて、酔ったふりしたんだよな」
鈴木は笑って言う。
「え……ふりだったの!???」
早苗は、驚きのあまり声を上げた。あの日、早苗側の扉を開けたのはいつもよりお酒が進み酔っぱらっていたからだと思っていた。
『ふりだったのか…。まんまと騙された……。』
悔しさが込み上げてきたが、同時にあの時の鈴木の行動があったから今がある。
そして、こうしてお互いの印象を率直に話し合うのは初めてだったので、新鮮でどこか嬉しさも感じていた。
『私と鈴木は、お互いが思っている以上に前から好意を寄せていたんだ。海外出張は単なるきっかけで、もっと前から私のことを好きでいてくれたんだ…。』
その事実が嬉しかった。
合鍵を受け取るために会った居酒屋で抱きしめられた時も、付き合ってからも鈴木は「好き」という言葉を言わなかった。それは早苗も同じだった。
「好き」を多用するとなんだか薄っぺらく感じた。「好き」「好き」と言い合ったり人前でいちゃつくカップルは冷めるのも早くすぐに別れそう。そんな偏見を持っていた。
鈴木は、買い物の荷物は絶対持ってくれたし、歩く時も早苗の速さに合わせてくれていた。居酒屋では聞く前に早苗が好きな品を注文してくれていた。
抱き合っている時に早苗を見る優しい眼差しや、大切なものを触るかのように丁寧に優しく触れて這わせる指。
興奮しながらも早苗が気持ちいいか、感じているかを優先させているところも、言葉はなかったが、鈴木のさりげなく分かりづらい愛情表現が早苗は好きだった。鈴木の愛情が伝わってきて満たされていた。
行動やふとした仕草で相手を思いやり伝える…そして、言葉にしなくても愛を感じられる。言葉だけが愛を伝える方法ではない。お互いに伝わって満たされているのなら、あえて言葉にする必要はない。大人になって早苗はそう感じていた。
早苗は、鈴木との情事を思い出しほんのり湿っていた。
「それでね、早苗ちゃん…」
急に、鈴木の声のトーンが変わった。それまでの和やかな雰囲気から一変、重く、真剣な声になった。
「俺、いつそっちに帰れるか分からないのよ。このまま待たせている今の状況は良くないと思う。だから……別れよう?」
幸せな空気が一遍し、早苗は鈴木の言った言葉をすぐに理解できなかった。