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第17話 別れ

「早苗ちゃん…」初めて下の名前で呼ばれた。


敢えて明るい声でふざけた口調にして呼んでいるのが伝わる。

しかし、今は名前を呼ばれたことよりもその後の「別れよう」という鈴木の言葉が頭の中でリピートしている。鈍器で殴られたような気分で、早苗は気を失いそうだった。



「え…?」この一言しか言えなかった。少し間が空いてから口を開いた。

「えっ…今、お互い前から惹かれていたって話をしたばかりだよね?なんで?なんで?今、お互い前から好きだったんですって伝えあって、知って幸せな気分でこれからも頑張ろうってなるところじゃないの?」今度は早口でまくし立てるように言った。


「だからです。だから尚更、楠木に我慢させて待ち続けてしまうのは良くないんです」


『早苗ちゃん』と呼ばれたのは聞き間違えだったのだろうか。鈴木は私のことをいつものように『楠木』と戻して、話を続けた。


「私は平気。大丈夫。待つ。鈴木のこと、あの部屋で待っている。鈴木が帰ってくるの待っているから…」

「楠木…」鈴木の声は、苦しそうに聞こえた。


「楠木ならそう言ってくれると思った…。平気だ、大丈夫。と言ってくれると思った。でも、楠木が本当はつらいけど、自分の気持ちに蓋をして我慢していることが苦しかった。待つって言ってくれるのは嬉しいけれど、これ以上楠木を縛りたくないの。分かって。」



早苗は、鈴木の言葉に息を呑んだ。そんなの受け入れられない。

しかし、鈴木の指摘は間違っていなかった。


早苗自身、寂しさと向き合わないようにしていた。

遠距離は2回目だから平気だろうと高をくくっていたが、実際は違った。

出国して1か月で機械を通さず、鈴木の声や表情を見たくなった。


鈴木と一緒に同じものを食べて日常の他愛のない会話を楽しみたい、言葉や声だけでなく鈴木の熱にも触れたかった。手の感触やたくましい胸板に包まれ鈴木の体温を感じながら眠りたかった。鈴木の一時帰国を心待ちにしていた。



帰国できなくなり、逢えないことが決まった時はひどく落胆した。

パソコンにお気に入り登録していた旅行先のURLは、見ると切なくなるのでフォルダごと削除した。スマホで旅行特集の広告を見ると胸が切なくなるので非表示にしたこともあった。


一人泣いた夜は何度もある。「なんでこんな目に…」と思い泣きすぎて目を腫らした朝もあった。しかし、鈴木の責任ではないし責めたところで鈴木を苦しめるだけだと思い言わなかった。



鈴木に指摘されて否定出来なかった。同時に別れを告げる鈴木の気持ちも痛いほどよく分かり切なかった。

「気持ちは嬉しい。本当に、本当に嬉しいんだ。でも…」


鈴木が珍しく言葉に詰まっている…。


そして、重い口を開いた。

「でも…決めたことなんだ。ごめん…」



『……決めたこと?』早苗の目から、再び涙が溢れてきた。



「こんな終わり嫌だよ。お互いずっと気になっていてやっと一緒になれたのに…嫌だ。私の返事聞く前に決めたことなんて…勝手だよ…ずるい」

「ごめん…。でも、大事だからこそ決めたんだ。楠木のことを思うからこうするのが一番だって…」


鈴木の声は、静かだが強い意志が感じられた。

何を言っても無駄だ。一時的なものではなく、これが鈴木なりの愛情表現で、何を言っても、もう鈴木の気持ちは変わらない。鈴木の優しさが痛かった。自分のことを思ってくれているのは分かる。でも、だからこそ余計に辛かった。



画面上の鈴木が眼鏡をはずし、下を向いて俯いている。早苗は大粒の涙を流し続け画面がよく見えない。そして、俯いている鈴木を見ていられなかった。



「楠木ってさ…普段はクールでメールの返信も素っ気ないのに、二人になると甘えてきて幼いところもあるよな。それもまた良かったんだけれど……。…出発前に普段見られない楠木の姿が見れてよかったよ。」



「…あと…あの部屋なんだけど、会社からずっと帰国できないのに家賃払うのもったいないからって解約するって通知が来たんだ。合鍵は失くしたことにしてあるから、捨ててくれていいよ。」その言葉が早苗をさらに深く傷つける。

「そんな…あの部屋……なくなるの?」

「うん…。」



「…ごめん…本当に、ありがとう。楠木と一緒になれてよかった。今までみたいな連絡は控えるから。」」鈴木は、最後にそう言って電話を切った。



ツーツーツーツーツーツーツーツーツー


スマートフォンから虚しく通話終了の音がする。握りしめたまま、しばらく動けなかった。



何故、お互いがお互いのことを想いあっているのに、こんな悲しい結末になるのだろう。

思いが通じればハッピーエンドとならない現実に早苗は唇を噛み締めた。




初めて抱き合った日を思い出していた1時間前が嘘のようだ。

あの幸せな時間から。早苗は一転して奈落の底に落とされたような気分になった。



小物入れから鈴木から渡された合鍵を取る。冷たい金属の感触が、手のひらに伝わってくる。早苗は、鍵を握りしめ、そっと目を閉じた。



『どうすれば良かったのだろう…。落ち込まないように暗い話は避けていたが、あの時、寂しさや不安も共有することが出来ていたらこんな結末にはならなかったのだろうか…。楽しい話や相手を想うだけでなく、自分の悲しさ、寂しさや怒りも伝え、その気持ちもお互いに受け入ら支えることが出来たらよかったのだろうか、こんな結末にならなかったのだろうか…』


朦朧としながら大粒の涙を流し、自分を責めたが早苗には答えが分からなかった。

鈴木はもう連絡してこない。今掛けなおしても、結果は変わらない。

簡単には受け入れられない現実に早苗はひどく傷つきぽたぽたと涙を流した。

部屋には静寂だけが満ちていた。




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