翌日から、早苗は何度か鈴木に連絡をした。
電話を掛けたりメールも送った。しかし、いつも繋がることはなく数日後に返ってくるのは事務的な「ありがとう」という短い返信だけだった。
それ以上の会話をすることは叶わず、早苗は深い喪失感に襲われていた。
こんな終わりがあるなんて…ぽっかりと穴が空いて何もする気が起きなかった。
一人部屋に戻ると涙を流す日が続いた。
「別れよう」「ごめん…」。早苗は、その言葉を反芻するたびに、胸が締め付けられるような痛みに襲われた。電気を灯さず暗い部屋で膝を抱え泣いていた。
「おはよう」と「おやすみ」もなくなり、いつもメールの画面から鈴木の名前は消え、スクロースをしないと出てこないようになり埋もれていった。そのことが悲しくて、連絡をするのだが既読はつくものの連絡はない状態が続いた。
そんなある日、珍しく鈴木の方から連絡があった。それは、短いメッセージだった。
「再来週で契約が切れます。ないと思うけれど、必要な荷物があったら取りに行ってください。自分の荷物は業者がすべて処分します」
早苗は、メッセージを読んで、胸がざわついた。
契約が切れる…。鈴木の部屋に入ることが出来なくなってしまう。
別れをつげられた数週間前とはまた違う。
今度は、本当に完全に終わってしまうという気持ちになった。
鈴木との思い出が詰まった、あの部屋がなくなる…もうあの場所に入ることがない…
早苗は胸を締め付けられた気分になった。
仕事終わり、早苗は重い足取りで思い出の場所へと向かった。
取りに行く荷物など何もない。それは分かっていた。
それでも、早苗はあの部屋を求めていた。このまま終わりには出来なかった。
もう入ることが出来ないと思うと息が出来なくなりそうなほど苦しかった。
鈴木と過ごした日々を、噛みしめたかった。
近くに社内の人がいないか確認して、時間差や迂回をしながら何度も歩いた道。
たまに並んで歩きながら他愛のない話をしたことなど色々な記憶が蘇ってくる。
マンションに着き、鍵を開けると「ガシャッ」という金属と金属が触れ合った冷たい音だけが響く。部屋に入ると、ひんやりとした空気が早苗を包んだ。
家主がいない部屋は、とても冷たく感じた。毎月、部屋の掃除に来ていたので清潔さは保たれている。しかし、今はその清潔感が鈴木の面影を感じさせないように払拭している気がして、早苗の心をさらに切なくさせた。
前月に来た時とは、気分も見え方もまるで違って見えた。
鈴木の姿はなくても、どこか二人の生活の匂いが残っていて、また戻ってきて一緒に過ごす未来のことを想像し心が温かくなった。
しかし今は、ただの空っぽの空間だった。
部屋の中をゆっくりと見て回る。どの場所にも鈴木との思い出が染み付いている。
キッチンでは二人で豚汁を作った。鈴木は、熱いのが苦手なくせに一生懸命ふうふうと冷ましながら美味しそうに食べていた。その時、眼鏡が曇って前が見えなくなるのが可愛かった。
寝室では、夜、鈴木の胸の中で抱き合った。
夜中に目覚めて、早苗に布団がかかっているか確認してからまた眠りにつくところも好きだった。温かくて、安心できる場所だった。
リビングで手を繋ぎ指を絡ませた温もりも、豚汁を二人で頬張りながら湯気と眼鏡の曇りに葛藤したあの時も、夜、鈴木の胸の中で抱き合ったあの瞬間も、彷彿させるものは、何も、ない。帰ってきたら一緒に食べようと思って購入した蒸篭も行き場をなくしてしまった。
この部屋には、二人の思い出を感じさせる熱を帯びたものは、もう、何もない。
あるのは、冷たい空気と、空虚な空間だけだった。
早苗は、リビングの真ん中に立ち尽くした。そして、静かに目を閉じた。鈴木と過ごした日々を、一つ一つ、丁寧に思い出す。楽しかったこと、嬉しかったこと、切なかったこと。全ての感情が、鮮明に蘇ってくる。
「こうた…。こうた……好き…。」
早苗は、家主のいない部屋で、初めて下の名前で呼んだ。
普段は、照れ臭くて呼べなかった名前。
一度も伝えたことのない好きという言葉。
今は、誰もいない薄暗く静かな部屋に、早苗の声だけが虚しく響いた。
出来ることなら直接本人に面と向かって伝えたかった。そしてその時は、こんな悲しい結末ではなく、明るく温かい二人に未来を感じられる瞬間が良かった。
熱のない部屋で、早苗は鈴木と過ごした日々を回想して、温もりに浸っていた。
まるで、過去の幻影を追いかけるように早苗は部屋の床にそっと指を這わせた。