目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第19話 早苗の回想

鈴木と別れてから8か月が経った。

季節は巡り、街の景色も少しずつ変わり動いていなくても汗ばむ季節がやってきた。

通勤中の人々は持ち運びのミニ扇風機や扇子、アイスコーヒーなど思い思いに暑さを和らげるためのアイテムをもっている。


付き合っていたのは1年。

そのうち11か月は遠距離恋愛と、顔を合わせていなかった時間の方が圧倒的に長かった。



短い時間ではあったが、その濃密さはまるで何年も一緒にいたかのように感じられた。鈴木との時間は、早苗にとって特別なものだった。


恋人としてではないが、同期として長い時間を共にしお互い密かに惹かれあっていたため、簡単に忘れることはできなかった。



よく飲みに行き、仕事の相談や日々の出来事を話し合った。困った時や話を聞いてほしい時、いつも隣には鈴木がいた。

『同期だから気兼ねなく話せる…』という言葉をお互いによく口にしていたが、それ以上の発展を望むと同時に今の関係を崩したくないという予防線もあった。



相手の気持ちが見えないと進めない臆病なところがあったのかもしれない。

私も、そして鈴木もどちらかがその殻を早く破っていればこんなに時間をかけなくても変わっていたのかもしれない。

鈴木と付き合えた時、長年待ち望んでいたものがようやく形になった、そんな感覚だった。




別れた直後のように、毎日のように大泣きする日はなくなった。

時間の経過が、心の傷を少しずつ癒していったのかもしれない。

しかし、まだ前を向けているとは言えず、毎日を淡々とこなしているに過ぎなかった。 電池が切れかけたロボットのように、事務的にただプログラムされた行動を繰り返しているだけだった。休日も何もやる気になれず、のんびりと部屋の掃除や食材の買い出しに行ったら1日が終わることもあった。



以前は、休日は友人と出かけたり、趣味の読書を楽しんだりしていたが、今は、そういう気分になれなかった。部屋の隅に積まれたままの本が山積みになっている。

鈴木は本を読まないが早苗の話を静かにそして優しい眼差しで聞いてくれていた。そんな光景を思い出し、また胸が苦しくなった。



新しい趣味や出会いも求める気にならなかった。始める気力も、出逢いが欲しいという気持ちも今の早苗にはなかった。心にぽっかりと穴が空いてしまっている。

その空いた場所に、他の何かを詰め込むことは、今の早苗にはできなかった。




思えば、高校卒業前に付き合った初めての彼氏はクラスメイトで好きや付き合うがよく分からないまま、告白された驚きが勝りそのままOKをしてしまった気がする。恋愛感情というよりは、友達関係の延長のような曖昧な関係だった。



お互い引っ越す前に、自転車で待ち合わせをし、ゲームセンターやファミレスなどに行った。初めてのデートの帰り際、相手が手を握ってきた。男の子に触れることがなかったので緊張して下を向いた。相手も下を向き、ただ手を握り何も喋らず硬直していた。


お互いドキドキしている状況に、これが「恋」だと思った。その夜は何度も思い出しては照れ、布団をかぶり直していた。『きっとこれが恋の始まりだ』そう思っていた。



しかし、2回目のデートの帰り際にキスをされた際は何も感じなかった。

唇と唇が触れただけ。 それ以上でもそれ以下でもなく拍子抜けした。もっと感動的な物だと思っていたが、自分の指で少し強めに唇を押した時の感覚に似ていた。



最も相手は少し興奮していて、その温度差に引いてしまった。

その後は別々の大学に行き、GWや夏休みなど最初のうちは逢っていたが、徐々に連絡頻度が減り、地元に帰ろうと言う話もしなくなり自然消滅した。私の初めての恋らしきものは驚きと動揺から始まり、しばらくして自然と消えた。

心に残ったのは、相手への申し訳なさだった。




大学の時は同じサークルの人だった。 一緒にいる時間が長く友達から自然と交際に発展した。この時はお互い一人暮らしだったので相手の家に行ったり色々な初めてを経験した。

初めての記念日、初めてのお泊り、初めての旅行、初めての夜。楽しい時間だった。


人並みに恋愛もしてきたが、恋愛の優先順位は低かった気がする。

他に大切なものがたくさんあった。友達、趣味、将来の夢。恋愛は、その中で、ほんの一部だった。別れたらそれなりに落ち込むが、号泣して手がつかないこともなく、気分転換に趣味のバスケットボールに打ち込んだり一人の時間を楽しんだ。

『 恋愛が全てではない、相手とは縁がなかっただけ』と思うことで心の傷を癒してきた。自分は恋愛に関してはドライな方だと思っていた。



しかし、鈴木とは違う。なんとなく相手への気持ちが離れて別れた今までとは違い、お互いの想いが通じあっていた中での別れだった。

相手のことを思うからこそ、このままではいけないという苦渋の決断だった。


だからこそ 今でも心の中に鈴木の面影があり、ふとした瞬間に思い出す。

一緒に過ごした日々、楽しかった夢のような時間、言えなかった言葉、それらが鮮明に蘇ってくる。甘い記憶であると同時に切なさを伴う記憶だった。鈴木のことをまだ忘れられない。今は、甘く楽しかった時間を思い出せば出すほど切なさが募った。


『縁がなかった…』過去の彼たちと別れたときに言っていた言葉なのに、今回はその言葉に深く傷ついた。 言い聞かせようとすると、返って涙が止まらなくなり不安定になる。


本当に縁がなかったのだろうか?

もし、あの時、違う選択をしていたら、違う言葉をかけていたら、二人の未来は変わっていたのだろうか?後悔の念が早苗の心を苛む。


特に、鈴木と最後に電話をした日のことを思い出すと苦しくなる。

あの時、もっと素直に気持ちを伝えていれば…。待っていることも、鈴木じゃなければ駄目だと言うことも、ちゃんと言葉にして伝えていれば…。


後悔は、過去を変えることはできない。しかし、早苗の心の中でその後悔は日に日に大きくなり、過去の反省を未来には活かせずにいた。



鈴木と過ごした日々は、単なる恋愛感情を超えた、深い心の繋がりだった。

お互いを理解し尊重し合っていることが伝わってきた。お互いの性格や考え方や好みも知り、長年連れ添った夫婦のように、安心感と信頼感で結ばれていた。


だからこそ一度口にしたらひかない性格の鈴木が発した言葉は、強い意思があるのだと別れの時も悟った。悟ったからこそ、それ以上言葉を返すことが出来なかった。



早苗にとって、鈴木との別れは想像以上に大きな傷となった。

もし、すぐに逢いに行けるなら鈴木の元へ駆け出していただろう。

鈴木の部屋に行き、玄関で驚く鈴木に思いっきり抱きついていただろう。

抱きついて離れたくないと子どものように泣いていたかもしれない。

「私は恋愛にドライな人間だったはずなのに。」早苗は自分自身を嘲笑う。



しかし、鈴木の部屋は退去処理され、未だ入国制限は解除されないままだった。

駆け出して行く場所も、物理的にも鈴木の元へいけない現実が早苗の心にまた一つ傷をつけた。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?