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第20話 鈴木の回想

異国の地で一人、鈴木はベランダからギラギラと輝くネオンを見ていた。

外からは、二輪車を走る人々で行きかっており排気ガスで少し煙りかかっている。

最初は日本との空気の違いに戸惑ったが今では慣れて日常生活に溶け込んでいた。

排気ガスの煙のように鈴木の心は、暗い靄がかかっていた。



早苗と別れてから、8か月。季節は巡り、太陽が突き刺さるような夏がまたやってきた。

『日本はどんな様子なのだろうか、楠木は元気だろうか。』

想像するだけで胸が締め付けられる。隣にいるはずの早苗の姿を探してしまう。



楠木早苗は、鈴木にとって特別な存在だった。

出発前の短い間だったが、彼女と過ごした日々は鈴木にとってかけがえのない日々だった。



彼女を初めて抱きしめた夜、家で一緒に料理を作り食べたこと、猫舌のため眼鏡が曇りなが

らも必死さます俺を笑う彼女の笑顔、彼女の声、彼女の優しさ、周りへの気遣いを怠らないが芯を持っている強いところも。全てが、鈴木の心に深く刻まれていた。



疫病の流行は未だ収束せず、入国制限は依然として厳しいままだった。いつ帰れるか分からない状況は、別れてから半年経っても変わっていなかった。



当初は、数ヶ月で帰れるだろうと思っていた。しかし、現実は甘くなかった。

いつになったら日本に帰れるのか、見当もつかない。

「次こそは逢える…」「今度こそ…」最初はそう言って、お互いを励ましあっていた。

最初は信じてやまなかったが、現状が変わらず何度も同じやり取りが続くにつれ、きっと状況は変わらないと理解しはじめ「次は逢える」が単なる慰めの言葉になっていった。



このまま帰れないかもしれない…。俺は、泣き言や寂しさを口にしない楠木のことが心配になった。そして、このまま待たせるのは酷だと思い付き合って1年になる日、俺は別れを告げた。楠木は待つと言ってくれたが、これ以上彼女の優しさに甘えてはいけないと思い俺は拒んだ。「これでいいんだ」と、何度も自分に言い聞かせていた。早苗のことを思うなら、この選択が一番最良だったはずだ。



俺は、今まで以上に仕事に集中することにした。

目の前のことに没頭しなければ、この異国の地で一人で生きていくことができなかった。


しかし、心の奥底では待つと言ってくれたことがとても嬉しく、早苗の幸せを願う反面、その幸せを叶えるのは自分では別の男だということを受け入れ難い気持ちもあった。

後悔がないと言えば嘘になる。



最良の選択だったという気持ちは今でも変わらないが、寂しさや悲しさを話してもいいという安心感を楠木に持たせてあげられなかったこと、自分の気持ちを素直に伝えなかったことが今でも心残りだった。あの時、もっと楠木の寂しさに寄り添えていれば乗り越えることが出来たのか。答えは出ないが自問自答を繰り返していた。



生活は、以前よりは落ち着いてきた。

外食もできるようになったし、現地の言葉も少しずつ話せるようになった。

仕事も、一時はパニックで止まっていたが徐々に軌道に乗り、本来の業務に戻り軌道に乗ってきた。付き合いで現地のスナックなどにも、たまに行くようになった。



そこで働くママや他の客に言い寄られたこともある。異国の地で一人で暮らす男は、どうしてもそういった誘いを受けやすい。特に日本やアメリカなど、現地より豊かな国の出身だと分かった途端に反応が変わる。出身国を言うだけでモテることもあった。


男性側も最初のうちは観光など現地の目新しさを楽しむのだが、滞在が長くなるに連れて時間を持て余すようになり徐々に一人の侘しさが募ってくる。

仕事の付き合いやふらりと立ち寄った店で、自分に親切にしてくれる女性に少しずつ心を惹かれ結婚や不倫関係になるケースも少なくない。


恋愛関係にならなかったとしても、女性側は常連客が増えるので、本気にならなければ痛手はない。男性は1人ではなくなったことで充実感を得て、帰りたくないと永住希望を出す者もいる。しかし、その気になれなかった。



自分が日本人だと知り、女たちは好機の目で嘗めまわすように見ている。ウインクや胸や腰を強調させた色っぽいポーズをしながら視線を送られることもある。素敵、魅力的など、言葉で褒めて倒そうとする者もいる。彼女たちの放つ”オンナ”の部分に俺はうんざりした。



そして、楠木の面影を探してしまうのだ。

過程を知った上で、俺のことを認めてくれる楠木はしっかりと見てくれているという安心感があった。今まで肩書や見た目で判断されることが多かった俺にとっては、安らげる存在でもあった。他の女性といても、心が満たされることはなかった。


最初の頃は、話しかけるなというのが態度にも出てしまっていたみたいだが、同僚に指摘され今は適当に話を合わせ、笑顔でやり過ごせるようになった。

しかし、それまでだ。それ以上の進展はないと距離感は常に保っていた。


夜、一人で部屋に戻ると静寂が包み込む。窓の外の喧騒がより一層孤独を引き立てる。

そんな時、俺は別れ際の楠木の言葉を思い出す。

「私は大丈夫。待つ、待ってるから…鈴木のこと待つから…」そう言ってくれた。

その言葉に甘えることはしなかったが、なんとかこの異国の地で生きていくことへの支えにもなっていた。



もし、あのまま日本にいたら…。

何度も想像した。出向の話がなかったら今頃は楠木とどんな生活を送っていただろうか?

あのまま付き合っていれば1年半。同棲や結婚の話が出ていたかもしれない。


朝起きると隣に楠木がいて、一緒に朝食を食べ、一緒に仕事に行き、夜は寄り添って眠る。そんなありふれた日常があったかもしれない。

仕事で昇格するばかり考え、今回の出向もチャンスだと思った。

史上最年少役員になるかも、と持て囃され実際になってやると希望に満ち溢れていた。



しかし、今となっては役員も出向がチャンスだとも思えず自分の運の無さを皮肉った。

いつになったら日本に戻れるのだろう、いや、このままこの地に定住して逢わない方がいいのかもしれない…。

夏といっても、夜になり風が拭くと肌寒く感じる。ぼんやりと考え続け、腕が冷えたことに気づき部屋に戻る。今は、仕事に集中しよう。そう言い聞かせ俺は寝どこへ入った。



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