日が暮れる頃、ようやく目白の現場に鷺沢と佐々木は到着した。石田刑事が言っておいてくれたらしく、現場を封鎖するトラロープを管理する警官がすぐに通してくれた。
「やっぱり防御した痕跡はない」
「でも自殺じゃないんですよね」
「うん。実はこの白石さんの表情を映している防犯カメラの映像を四十八願が送ってくれてた。なにかすごく覚悟した顔してる気がする。疲れ切って自殺する顔には見えない」
「まさか、殺されることをすでに覚悟していた?」
「そうかもしれない。そしてそれなのに生き残ることを選ぼうとしない」
「そんなことあり得るんでしょうか」
「誰かをかばって殺されよう」
「まさか!! そんなことって」
佐々木は反対する。
「利己的遺伝子って考え方がある。命は、それで守れるものがある程度を越えて大きいと認識するとそれを捨てることをなんとも思わなくなってしまう作用がある」
「本当ですか」
「生物学者リチャード・ドーキンスの提唱に寄れば、我々は全て遺伝子の乗り物であり、遺伝子を残すことに有利なら命そのものはそれほど重視しないような行動を取ることが多い、という。奇妙に思えるけど、もしこのどん底の日本の子どもたちを幸せな未来に必ず送り届けることができるけどその代わり死ななきゃいけない、となったら、それでも自分は生き残りたい! と思える? たとえは首都圏を蒸発させうる核爆弾があって、それを自分が死ぬことで停められるとか、そういうシチュエーションになったとしたら?」
「仮定の質問には答えようがないけど……もし本当に完全にそうだってことなら、自分の命は諦めるかもしれない。そういうことはめったに無いと思うけど」
「この白石さんがそういう状況に追い込まれた可能性がある」
「まさか」
そのとき、ケータイが鳴った。
「案の定出てきました。ランサムウェアです」
「ランサムウェア?」
「システムに感染するとシステム自身を人質にとるタイプのマルウェア、悪意のあるプログラム。病院のシステムに感染して保存されていた患者のカルテを全て暗号化して閲覧不能にし、その解決のために身代金として暗号通貨を要求したことがある。今あちこちでそれが猛威を振るっている。ランサムransomは身代金って意味だ」
「でもそれがどこに感染したんですか」
「それが……首相官邸がやられちゃってたんです。12月に」
「そんな!」
「首相官邸のドキュメント、データ、そして業務システムがそれで全て麻痺しました。しかしそれは公表されなかった」
「うっ、でももしかすると……たしか年末、お年玉付き年賀ハガキの発売式典になぜか総務大臣が出席しないで総務副大臣が出たことがあったような。そのとき総務大臣の動静が一時不明になっていた、ってゴシップ誌の話題が。あれ、フェイクニュースかと思ってたんだけど」
「今は大手メディアより一部のゴシップ誌のほうがフットワーク軽くいろんなネタを拾うからね。もちろん否定されたしゴシップ誌もそれ以上いわなかったけど、今思えば総務大臣、首相官邸のランサムウェア感染の対策で多忙だったんだろうなあ」
「でもそれと総理の沖縄演説に何の関係が?」
「直接の関係では無かったと思います。でも官邸スタッフのドキュメント関係は復旧作業でも復旧できず、身代金の対象になり続けた。それが白石さんの個人ドキュメントだった。白石さん、親の介護や仕事の悩みを官邸システムの個人領域に残してた。それ自身は官邸スタッフみんなに相談してたことだし、組織として個人のそういうことを無視してたら予想外の弱点が発生することもある。それで白石さんの親の介護と実家の建物と土地の処分の書類がそこにあって、それが人質になってしまった。もちろんそういう話だったら」
「そういうのは内閣機密費で解決できるんじゃ……」
「そう。そのための内閣機密費だと思う。官房長官の一存で使えて領収書も不要、会計検査院の監査も免除、内容も使い道も報告不要の資金が1947年度から内閣にはあります。その額は14億6千万円。うち12億は政策推進費、内閣情報調査室の活動費に使われているといわれています。マスコミや評論家への懐柔工作や選挙への介入に使われている疑惑もあり、最高裁がその使い道の一部開示を命じた判決を出しましたが、それを官邸は拒否しました」
「でも首相官邸を狙ってそれが外れたからって白石さん個人を狙い撃ちにされて、それを見捨てるのはどうかと思う。たしかに税金だけど、国や国民のために働いているのに個人となった途端見捨てられるんじゃ、怖くて敵に流れる人間も出てしまうわ」
「そう考えたんでしょうね官邸首脳も。ただそのとき偶然、沖縄首里城を訪れる計画があった。時期は正月ではなかったけど、首里城の正殿火災からの復興を正式に記念するイベントに沖縄県庁から総理への招待が来ていた」
「それとどう関係が」
「ランサムウェアを仕掛けたのは北朝鮮やロシア系のハッカー集団です。北朝鮮の情報作戦部隊で育てられさまざまなデジタル犯罪で北朝鮮やロシアの国家資金を得ているとされます。北朝鮮のミサイル開発の資金はほぼそれでまかなわれているとも。その彼らが日本の首相官邸の手の内を見てしまったわけです。正直」
「チェックメイト、って訳ね」
「そうです。あとはどうやってキングの首を刎ねるかだけ。でも官邸はそのなかでどうやったらこの失態の被害を小さく出来るか考えました。まず国民防護や有事関連の計画は漏れたと覚悟して全部書き換え、差し替えなければならない。しかしそれには時間がかかるし、その間に他国に有事を仕掛けられたら対応する手段がない」
「そうか! それでわざともっとイージーにできる罠として総理を」
「ええ。それで総理の正月の沖縄行きを決めたんです。沖縄で総理のクビを差し出してでも日本を守ろうとしたんです」
「じゃあ、この失言騒動ってのは」