きたロボットは、このファミレスの配膳ロボットだった。湯気を纏った温かなスープやグラタン、パスタがそのラックに載っている。その液晶画面には可愛いネコの意匠が描かれている。
「教授、まず温かいもの飲みましょう。注文しておいてありましたから」
「飲めない……」
教授は嗚咽の中、答える。
「じゃあ、とるだけとってください。冷めてからでも良いから、飲むんです」
鷺沢は優しく言った。
「そして教授、今から休みをとりましょう。1週間で良いから」
「でもそんなこと」
「すみませんが教授が相談してる弁護士さんともお話ししてあります。弁護士さんも同意見です。授業もこういうときです。大学は欠講にしましょう。夫さんが逃げる場所がないなら、あなたが代わりに逃げるしかない」
「そんな無責任を……あ」
「そう。夫婦関係で片方が責任を負うなんて事はなくていいんです。結婚ってのは二人で作り上げるものです。片方が一方的に負担してるなんて思ってたら、それはもう病んでるんです」
教授は気づいたように目を丸くした。
「二人がそれぞれ負担し、責任を持つべきなんですよ。一緒ってのはそういうことです。それが出来ない時点で病んで破綻してるわけで。教授、あなたもがんばったけど、それはもうどうにもならない。病んだ関係で力を注ぎ続けたら、もっと悪くなるのは当然です。それに、愛ってのは別れもそのうちに含むんです。愛してるからこそ、責任があるからこそ、自分から離れたり別れることも必要なんです」
教授は、嗚咽から今度は咳き込んだが、それを落ち着けて話し始めた。
「ソフィアには何でも見られてました。あの子はほんと可愛い子だった。だから、彼にああされたとき、私は耐えられなかった……」
そのとき、配膳ロボットがキッチン前に戻っていった。そこに店員バイトの女の子がいた。もう昼のシフトから上がろうとしているのだろうか。彼女はそのとき、配膳ロボットに優しくタッチした。それはまるで人間の同僚とねぎらいあうハイタッチのように見えた。
「ロボットだと思っていつのまにか、低く見ていたんでしょうね。ソフィアはそれにもかかわらず、私に夫と離れるように促した。私よりソフィアのほうが聡明だった。だから私はつまんない自尊心が傷付いて、それで被害届を出してしまったのかもしれない。尊厳を傷つけられたと思ったけど、傷つけたのは私だったのかも」
「教授」
鷺沢が言った。
「お時間ある限り、お話を聞かせてください。教授は多分、ほんとうに話せる相手が足りないんです。気遣って我慢してるけど、教授は本当は話したいことで一杯なんです。ご著書読んでそう思いました」
「読んだんですか?」
「ええ。教授は聞き上手だけど、それで我慢してることも多いんでしょう。そう思いました」
佐々木は気づいた。なるほど、教授はいまとても精神的に不安定だ。その危険を除去するにはそれは有効な定石だ。
しばらくあと。
「教授、ではお休みのホテルまでお送りしますよ」
「夫さんへの連絡は私がしますので、ご心配なく」
佐々木が言う。
「えっ、なんで夫のケータイご存じなんですか?」
教授が驚く。
「私、警察なので」
そういっても教授は信じなかったため、佐々木は警察手帳を見せた。
「民間人には通報は努力義務ですが、警察はそれ以上にDVを見過ごさない責務がありますから。夫さんとの別れ、つらいと思いますが」
教授は首を振った。
「私の暴力で夫のほうがつらかったと思うので、全くかまいません」
佐々木と鷺沢はうなずいた。
「愛って何か、フェミニズムって何か。それは私にとっても一生をかけて学ぶべき題材です。そしていま、ようやくそれがまた良い起点にたどりつけたんだと思います」
教授はそう言ったが、まだ目に涙の跡が残っていた。
*
「結婚とか愛とか、いろいろわかんないとこありますね」
教授を送ったあと、帰りの駅で佐々木が言う。
「そのためのアプローチのひとつがフェミニズムなんだろうね。ぼくもまだよくわかんないけど。そしてあんな聡明な人でもDVの罠にはまっちまうんだから、僕ら普通のスペックの人間はもっとすごく注意深くなくちゃいけないよね」
鷺沢はそう言う。
「ぼくもこういうので離婚したとこあったし。小説やめる羽目になって収入減りすぎて嫁さんとカードの支払が来るたびにケンカしてたし、300円ちょっとのお金でも言い合いになってヘトヘトになった。離婚して正解だった。元嫁、今実家に戻って生活再建して暮らしてる。それがぼくにはうれしい。ぼくのそばにあのままいたら地獄だったと思うから」
「そうだったんですか」
「経済DVってのもあるんだ、ってあとで知った。ほんと、結婚したときは夢と希望に満ちてて、ほんと楽しい日々だったのにね。元嫁にはほんとうにすまない。今でも」
佐々木は鷺沢を見ている。
「でもそのソフィアってよばれてた警備ロボット、どうなっちゃうんだろう」
「どうもこうも、多分警備会社で処分されるだろうね。まあ決まりはないけど、よその警備現場で使うかもしれない。ロボットに今のところ人格は認められてないから。メディアもネットもおもしろおかしく興味本位でつつきまくるだろうけど」
「そうね……廃棄処分にならなきゃ良いけど」
「心が痛むもんね。たしかに。でもそれもあり得る。残念だけど」
そういって二人は駅のコンコースを歩いていく。
そのとき、駅の警備ロボットが目の前に現れた。
「それにしても人間の警備員も人材不足だってのに、ロボットを安易に代わりに入れるの流行るもんなあ」
鷺沢が嘆くと、ロボットが「ほんと、そうですね」と合成音声で答えた。
鷺沢と佐々木は目を見合わせて、おどろいた。
「えええっ!!」
<暴行犯は高度警察ロボット? 了>