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第85話 逮捕者は国家元首?(5)

「国家元首の逮捕、できるかどうか、一応調べた。やっぱりすごく難しいんだよね」

 鷺沢は頭をかいた。四十八願がPC席の椅子に座ったまま、その大きな瞳で見つめてくる。こういうときの四十八願の真剣な眼はとても魅力的だ。

 あんなことがなければ四十八願は本当にもっと学歴も職歴も高いものが当然得られただろう。でも今の日本ではそういう自由は実質ない。鷺沢も気づけばリスキリングなんか出来ない歳になってしまった。役所は氷河期世代のリスキリングなどと言うが、それやったところで採用する企業は正社員にするつもりなどさらさらなく、あいもかわらず不安定低賃金の非正規でしか雇われない。氷河期世代も完全に無職では無くそれなりにやりがい搾取とは言えやりがいのある仕事をしているので、それを手放してリスキリングですり減らされてまた非正規、それももっと不安しか無い職場に移る理由が乏しい。せめて企業が賃金水準を上げてくれれば良いのだが、企業も物価上昇燃料費高騰輸送費高騰と理由をつけて製品の値上げはしても賃金は上げ渋るのだ。結果物価が上がるのに賃金は上がらず皆貧しくなる。どこかの大学教授がみんなで貧しくなろうなどといって炎上していたが、そんなこと言わずとも貧しくなる。さらに災害も続くのでさらに日本人は貧困感が強くなり、消費が冷え込む。その上でインバウンドで増えた観光客に顔をしかめる排他性もあるのだからどうやっても国の増収の望みがないのだ。

 それでも鷺沢も四十八願も頑張っている。でも国はどうやっても傾いていっている。そして中国と戦争の準備でチキンレースになる。どう考えてもたまらない。


 そこで鷺沢はふっと思った。


「難しいけど……案外なんとかする気なのかもね」

「えっ」

「そりゃ難しいことではある。国際慣習法ってのがあって、外交官や元首は逮捕できないって言う外交特権がある。だからよその国の外交官がうちの国で犯罪してもうちの国が逮捕はできない。相手の国に追い返すのがやっとだ。で、なんでかなというと、安易に逮捕しちまうとその国との最低限の外交関係を効率的に保っていくのが難しくなっちゃうんだよね。外交官も元首も相手の国の全権持ってる。それをないがしろにすると相手の国も相互主義でないがしろにしてしまう。となると国家間の話し合いが出来ない。いくら関係が悪くなっても国交断絶を踏みとどまっていられるのはその相手の外交特権の尊重をしているかららしい。しかもこの外交特権、国の大きさに関係なく尊重することにしている。だから小さな国も大きな国の脅迫に対抗して独立を保ててる。つまり国際秩序の基礎なんだよね」

 鷺沢はそういって息を吐いた。

「というわけで望み薄ではある。国家元首を逮捕しちゃうとこっちの国家元首も逮捕されちゃう。とくに我が国の国家元首は総理では無く天皇陛下なんだよね。よその国はいくつかの国は国王や女王、ほとんどは大統領だったりするけど。それもややこしい」

「そうなんですか」

「それでも外交官の外交特権は縮小されていく傾向はあるかもしれない。昔は国際法上の免除がある、ってされてて刑事民事両方で裁判にかけられることは無かった。でも外交官がせこい私的な不払いとかしてるのも国を代表してるって事になるのか、ってのはさすがに疑問に思われて。それで民事裁判は免責にならないってことになってきている」

 鷺沢はコップのジンジャエールを飲んだ。

「でも『事項的免除』ってのがあって、国家としての公的な行為については免除だ、っていうのは今でも有力で主流の考え方。しかもこれは主流過ぎて当然だってことで余り議論されてなかった。慣習法で明文化されてないけど、それだけ強い常識だった。でないと能率的に外交という国の代表の仕事をすることができないからね。国をよその国が裁判で裁くってのはあり得ない、とされてた」

「えっ、でも、日本は戦争に負けたとき、たしか裁判受けましたよね」

「そう。大日本帝国を裁いた極東裁判、東京裁判だね。それにナチスドイツもニュルンベルグ軍事裁判で裁かれている。というのも、ドイツのアウシュビッツみたいなユダヤ人虐殺はドイツが決めた話、国の行為だから裁けないんだ、ってことになるのはさすがにおかしいだろ、ってことになった。日本はそこまでヒドいことしてたかどうかと言うと、一応中国は南京虐殺を言ってるけど、ぼく個人的にはシンガポールの華僑虐殺とかひどかったからね。とはいえじゃあアメリカの原爆投下や市街無差別爆撃も国際法違反だろ、ってなるし、そうなると日本の重慶爆撃、ドイツのゲルニカ爆撃も国際法違反、でももっとまえの中国での日本人移住者虐殺もヒドかったし、そうなると日本の満州事変のときの張作霖爆殺はどうなるんだとかほんときりがなくなる。事実東京裁判ではインドのパール判事が『こんな日本だけ裁く裁判など不公正であり得ない、起訴された日本人戦犯全員無罪!』って主張した」

「そういう話も聞いたことあります」

「でも、どっかでケリつけないとこういう話、どこまでも全然終わらないんだよね。終わらないからこれまでと同じように原爆だの虐殺だのをばんばんやっても仕方ないって国際社会にしとくのはマズい、ってのはある。それはあの大戦で多くの国がそれに気づいた。だから、国際法上の犯罪はどんな相手、国家元首や高官要人だろうが免責にはならない、って原則を明記した」

「そうなんですか」

「日本国憲法前文、これ、けっこう日本でも軽んじられるけど、あのときの空気を表してると思う。

『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。』

 それだけ戦争はこりごりだ、って事を思ってたんだと思う。それだけ悲惨な戦争だったからね。

 以降、ジェノサイド条約や刑事国際裁判所がつくられるなかで、そういう国家の国際法上の横暴は看過しないって方針が少しずつかたまっていく。旧ユーゴやルワンダの虐殺では裁判が開かれ、そこで旧ユーゴのミロシェビッチ元大統領が起訴され、処罰される寸前まで言った。でも彼は判決前に死んでしまったので裁判は終わってしまった。ルワンダ虐殺のほうではその原因となった撃墜事件の調査が政治にすごく影響されてしまった、でもドイツ政府はその調査の容疑者の逮捕要請に応えたし、フランス当局も協力した。それでも結局この100日間で100万人もの犠牲者を出した虐殺事件、国連は後手に回った上にヨーロッパ人の持ち込んだ対立を解決できないままに終わってしまった。

 そのあとのスーダン虐殺、ダルフール紛争は中国も関わってしまいもっと複雑だけど、それでも日本は難民支援、救援物資提供をして、さらにバシール大統領に対して刑事国際裁判所が逮捕状を発行したことについて日本政府としてそれを支持することを表明した。

 でも国際刑事裁判所についてはアメリカもアフリカも不満をしめしているし、アメリカも批判的になってる。そもそもアメリカは国際刑事裁判所の採択に反対したし、クリントンはその根拠のローマ規程に署名はするけど批准しないなんてことしたし、ブッシュは署名撤回なんて国際法上前例の無いことしようとして議論になってた。

 そして最近、国際刑事裁判所はウクライナ戦争でロシア・プーチン大統領に逮捕状を発行した。容疑は占領したウクライナの地域の子どもをロシアに移送したこと。これはたしかに戦争犯罪っぽい。

 でもアメリカのボルトンはロシアのやった虐殺はロシアが裁くべきだなんて主張してるし、トランプはアフガンでの米兵の戦争犯罪捜査に対抗して国際刑事裁判所の関係者への制裁をきめた。それは2021年に解除され軟化傾向ではあるけどまだ関係は良いとは言えない。

 国際刑事裁判所への反対国はアメリカ、中国、イスラエル、イラク、リビア、カタール、イエメン。そしてインドとシンガポールは棄権している。まあそういう感じだよな、って国がそうしてる。

 そして国際司法裁判所はイスラエルのガザでの虐殺の審理を始めた。それに我が国の外務大臣は法の支配の推進へ国際司法裁判所の強制管轄権の受諾国を拡大を訴えている。外相は「法の支配が降伏の白旗を振っている場合ではない」とまで言ってる。

 そしてその国際刑事裁判所の判事に日本人がいる。赤根智子判事。彼女はプーチンの報復の可能性に対し『裁判官は仮に一人死んでも、いくらでも換えが利くものですから』と言い切っている」

 四十八願はうなずいた。

「すごい勇気だと思うけど、私も同じ気持ちです。私がもし殺されたとしても、カラハンみたいなとんでもない国をそのままにしていいとは思わない。せこい脅迫におびえるのはまっぴらです。これからも勇気を失わず、おかしいことにはおかしいと言いたいし、そういう世の中で胸を張って生きていきたいです」

 鷺沢もうなずいた。


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