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第94話 殺人者は希死念慮(4)

「でもこの操作の8時間って長いですわね」

 晴山が言う。

「いいえ、それだって精神医学的にいえば、驚くべき短時間ですよ」

 黒崎が言う。

「精神医学の治療単位は最短でも数週間から数ヶ月、何年もかかるのもよくあります。統合失調症にいたっては5年かけても治ったというレベルになるのは7人にたった1人なんです」

「そんなに時間がかかるんですか」

「ええ。ほとんどの場合は一生治療が続くと覚悟せねばなりません。それを8時間のキャリブレーションのあとで治療してしまうのは画期的なんです」

 黒崎の助手がみんなにコーヒーを出し始めた。

「すこしシステムのウォームアップに時間がかかるので、その間に精神科医療の歴史について少し知識としてお話しします」

 黒崎は呼吸を整えた。

「もともと精神科疾患は長い間謎の病気でした。それゆえ治療法もなかなか見つからず、偏見も多かった。社会に適応できない、何をするかわからなくて怖い、心が弱く精神力がない、という偏見が続いていたし、そもそも精神病は治らないとすら思われていました。最近では治療法の開発は進んでいるのですが、それでも患者は薬漬けにされるというイメージをもっているのが残念ながら一般の感覚です」

「でも鷺沢さん、普通ですよ」

「鷺沢さんは鬱や統合失調症の適切な治療をうけています。困る症状はかなり抑えられていたと思います。精神科の治療は根治よりも社会復帰を目標とすることが多い。ちゃんと朝起きて夜寝てお金にもそれほど困らなければ十分、という判断です。症状自身は困らない程度であれば健常人にも軽いものはよくあるものです。例えば手を洗ったときちゃんとよく洗えてない気がするとか、出かけたときに家に鍵をかけたか思い出せず不安になる、とか」

「え、そんなのもそうなんですか?」

「普通の人にもよくありますよね。でもこれが不安が強くて手を3時間も洗い続けたり、遠くまできて鍵のことを思い出して耐えられなくなって毎回延々と戻ってしまうとか、そうなれば日常生活が全然出来なくて困ります。そうなれば治療の対象になります」

「程度問題、ってことですか」

「ええ。人間の心は簡単に線引きなんてできないんです。健康と異常のあいだにグラデーションがあり、それは人それぞれに違う。だから一概に言えない。精神科医はその意味で患者一人一人に合わせて考えねばなりません。でもそういう考え方が出来るまでは患者も医師も苦難の歴史でした」

 黒崎はパワポを使った。

「かつての精神科の治療法には瀉血、血を抜くというのもありました。血圧を下げれば治ると思ったんです」

「え、そんな簡単な方法が」

「もちろん効果なんか無いです。患者がふらふらになって妄想どころでなくなるだけで、なんの解決にもならない。それで行われないようになりました」

「そりゃそうです」

「血を抜くだけでなく下剤や嘔吐剤でふらふらにさせるのも瀉血療法でした。それに水責めなんてのもありました。水をぶっかけたり池に突き落とす。その驚きや恐怖で解決しようとした。でもそれも一時的にそれどころでなくなるだけで、それが過ぎれば妄想も症状もそのままです。それでこれもやめました。旋回椅子という椅子に乗せてグルグル回すなんてのもありました。これもふらふらになります」

「ちょ、ちょっと待ってください、それ、治療と言うよりただの拷問じゃないですか」

「そう思われても仕方ないですよね……でも治療法が無かったので患者も家族も医者も必死だった。とはいえ試行錯誤と言うには残酷で苛烈ですが。他にもマラリアに罹らせてその高熱で治療しようというのもありました。高熱で幻覚が亡くなった患者がいたという話でやったんです。でもそれは梅毒の精神症状だったらしい。梅毒の原因菌はたしかに高熱に弱い性質があります。とはいえそれを一般化しても上手く行くわけがない。あまりにもハイリスクで、それでやらなくなりました。しかし、この治療法を開発した医師はノーベル賞を貰っています」

「え、そんなので」

「ええ。他に方法が無かったので、人類もわらにもすがる状態だったのでしょう。そしてようやく精神が脳によるという考えになったのですが、そこで脳を直接切除しよういう方向になります。ロボトミーというんですが、そんなことしたら脳の正常な機能も失われてしまう」

「そりゃそうですよ!」

「でもこれも開発した医師はノーベル賞を貰ってるし、1975年に否定されるまで日本でも実施されていました」

「結構最近じゃないですか!」

「そのあともインスリンショック療法という低血糖発作をつかった療法、カルジアゾール痙攣療法もあったし、電磁痙攣療法として患者の頭に電気をビリッと流す治療法もありました。でも最後の電気療法は偶然に効果があったのです。それでも機序、なぜそうなるかが不明で、またこれもリスクが高いのであまりできない。最後の電気療法はそれでも重症の患者に『修正型電磁痙攣療法』として今でも少し行われています」

「やってるんだ……」

「ええ。でもそれより1950年代にクロルプロマジン、商品名コントミンが開発され使われ始めます。これは精神医学にとっては革命的でした。なにしろ飲み薬で症状に効いちゃうわけですから。そのあと1990年代には第2世代、第3世代の抗精神病薬がでます。精神医学で脳内のドーパミンなどの分泌に異常があるという仮説から、アリピプラゾール(エビリファイ)という脳内でドーパミンが多すぎるときは抑制し、少なすぎるときはその分泌を促すスタビライザーなんて薬まで登場しました。今ではこれは新薬から定着してジェネリックでも処方されています。薬物療法とともに認知療法、カウンセリングに磁場をかけるrTMS療法も保健医療として認められました。光を追わせることでトラウマを治療するEMDR療法、さらにLAIという薬の飲み忘れをふせぐものもでています」

「でも1990年代までは結構たいへんだったんですね……」

「ええ。鷺沢さんもそのころに治療を始めて、そういった新しく有効な治療法の恩恵を得ていると言って良いと思います。そこから30年以上、服薬と通院を続けていた」

「それでも希死念慮は完全にはなくならなかった。確かに私たち模型チームの中でも鷺沢さんが時々精神的につらそうにしてるのを知っています。でもそれほど病的な感じはしなかった。きっと押さえていたんでしょうね」

「つらいことには変わらないんでしょうけれど、気遣いだったんでしょうね」

「でもこのSuperMEGが使えれば、もっと精神医学は進むでしょうね」

 黒崎はうつむいた。

「使えれば、ですけどね。今のままでは倫理的に危険で使い物にならない」

 みんな、押し黙った。

「残念です」

 黒崎は悔しそうだった。


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