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第97話 殺人者は希死念慮(7)

「でも鷺沢さん、なんでこんな時にしにたくなっちゃったんでしょう?」

「調べてるんですけどイマイチぼんやりとしかわからないんですよ」

「もともと鷺沢さんの家族になにかあるってことは?」

「精神科ではご家族の既往歴を初診の時にしらべます。それでみてもそれほど特異なモノはありませんでした。子どもの頃は身体が弱かったようですがご両親の愛を受けて、希望に満ちた前向きな子どもとして成長してきたようです」

 そういう黒沢が電子カルテを見ていう。

「昔から社会的再適応評価尺度、SRRSってのがあります。ストレスを評価する尺度で、これまで良く使われてきました。それで最大のストレスの100点は配偶者の死。離婚が73点、夫婦別居が65点。解雇失業が47点。この尺度には休暇13点、クリスマス12点なんてのもリストされてます」

「クリスマス……でも確かにあれも精神的にしんどいことがありますね」

「でも鷺沢さん、それに比べればもともとでかいストレス抱えてたことになる」

「ええ。でもそれだけで希死念慮がこんなに前に出てくるのは説明できない」

 そのとき、

「黒崎さん、キャリブレーション完了しました」

「ありがとう。じゃ、みなさん、これを」

 助手たちがVRグラスを持ってくる。

「一人一つあります。つけてください。これで鷺沢さんの意識の中に潜ります」

「そんなことできるんですか」

「このSuperMEGの最大の機能です」

 四十八願、佐々木、晴山がそれぞれそれをかけ、専用コントローラーを手にした。

「HTC XR Elite…….これ欲しかったけど高くて手に入れようが無かった」

「え、このゴーグルそういうのなの?」

「ええ。1セットで12万はしますよ」

「ええっ」

 佐々木は驚く。

「気にしないでください。医療用の機械に比べれば安いですよ」

 黒崎がそう言いながら何か操作している。

「今から鷺沢さんの記憶を読み出したものを論理的に再構成した構造体を表示します」

 ヘッドセットのレンズにうつるグリッド状のテスト用パターンが飛び散り、一気に茫漠とした青い空のような空間が見えた。

「下を見てください」

 そうすると、遙か下に不思議な緑に輝く樹のような構造物が見えた。

「あれが鷺沢さんの意識と記憶です」

「こんな風に見えるんですか」

「こう解釈したほうが分析しやすいんですよ」

 4人はその樹の樹冠部にに降りていくと、その樹がもつ葉もそれぞれに脈を打つように輝いている。

「この葉が鷺沢さんの一単位の記憶です。記憶は感覚記憶、短期記憶、長期記憶に分けられます。感覚で得た情報は感覚記憶。これは1秒で消えてしまう。それを短期記憶に変えます。これも15秒から30秒ほどで消えます。それを人間は必要に応じてその一部を一生残る長期記憶に変換します。脳科学ではその記憶についてチャンクといわれる単位があります。短期記憶で保持できる情報の単位で、数字で言えば4個前後になります。3桁ー4桁ー4桁の電話番号の記憶なら3つのチャンクになります。右と左なら2チャンク、ド・レ・ミなら3チャンクというように。こういった記憶をまとめ整理するのをチャンキングと呼びます。脳は通常でも身体のエネルギーの25%を使う大食らいの臓器です。そのリソースを効率的に使うためにこのチャンキングが働きます。人間の脳には1000億個の神経細胞、ニューロンがあり、そのうち長期記憶を司る錐体細胞は10億個あります。それをメモリーチップと単純比較するのは無理ですが、それでも数ペタバイト、1000ギガバイト以上の記憶スペースがあると考えられています。HD動画なら13年分、写真なら2億5千万枚、文庫本なら2億5千万冊分、音楽なら4億曲分」

「意外と少ないんですね。動画13年分といっても人間は普通は60年以上生きますから、その記憶は動画では無く必要に応じて写真や本のような文章に変換して効率運用しているんですね」

 四十八願がそう言う。

「そうですね。そのために鷺沢さんの長期記憶も、映像ではなくテキストデータのようなものに変換されているものが多くあります。その記憶が働いて、心理状態を作っていきます」

「じゃあなにかすごく影響のある記憶がどこかにある?」

「ええ。でもその記憶を除去しても、その記憶があったことで支えられていたバランスが崩れて悪い状態を作ることがあります」

「でも鷺沢さん、どんなこと考えてたのかな」

「今見ると、影響が一番大きいのが離婚ですね。奥さんのことをつねに考えていたようです。そして袂を分かつことになった親友のこと」

「そんな未練持つなら別れなきゃ良いのに」

 佐々木がイラッとした声になる。

「あとは仕事のこと。バイトでクビになりそうってのはホントだったようです。それに書いていた小説のことも」

「そういや、推理小説でもう一度がんばりたいと思ったけど無理だった、ってのですごく凹んでましたね」

「自分の小説が売れない、ってだけならまだ良かったようです。鷺沢さん、もっと深刻な事を考えてる。とくに最近の映画やアニメのストーリーの扱い方に強い残念感を持っていた」

「それ、もう歳だからついて行けないだけじゃ?」

「それもあるでしょう。でも、最近の映画やアニメの原作者の扱いについても」

「あ」

「そうです。アニメ監督が『原作者は邪魔だ』といってしまったり、原作を無視した脚本による作品が横行している。それとストーリー的には破綻しているのに作画が良いとか音楽が良いとかで人気のあるアニメとか」

「アレですね……鷺沢さんすごく落ち込んでた」

「『可愛い女の子が出てくればストーリーなんかどうでもいい』という視聴者。なかには『ストーリーについては我慢している』なんて言ってる人もいる。『我慢』しながらそのアニメを褒め、キャラを愛し、グッズを買い、聖地巡礼する。ストーリーなんてそんなものだったのか。鷺沢さんはいいストーリーを書くために一生を賭けようとした。しかしそんなものは実はどうでもいいものだった。そのことを40年かけて思い知らされた。結局、40年間がまるごと無駄だった」

「そりゃ死にたくなるかもなあ……」

「そのために奥さんとの生活を収入で支えられなくなり離婚した。その奥さんも中国に仕事で行ったときに拘束されて障害を負った。離婚に追い込まれなければこんなことにはならなかった」

「鷺沢さん……そんな」


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