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第12話.その手のひらに

 アルフレッドのために母が用意した部屋は、ハリエットの隣にある「兄が使っていた部屋」だった。家の中で客室として使えるのがそこだけという事情は分かるものの、どうにも釈然としない。ハリエットは納得できないまま、ベッドメイキングに取り掛かっていた。


「ちょっと、エイト。どいてくれる?」


 清潔な白いリネンを敷いたばかりのベッドの中央に、我が物顔で座るのは飼い猫のエイトだ。ふわりとした毛並みはこんがり焼けたパンを思わせる色で、目は緑柱石のような澄んだ輝きを持っている。彼女が声をかけても、エイトは耳を動かすだけで、移動する気配すら見せない。


「絶対にどかないっていう顔ね……」


 長毛というほどではないが、冬毛でふっくらと膨らんだ胸元に目をやりながら、ハリエットは深々と嘆息した。手を伸ばしてみるものの、エイトはまるでその気配を見透かすかのように身じろぎもせず、ただ彼女を見返すだけだ。


 その時、不意に背後からノック音が聞こえた。


「ハリエット」


 驚いて振り返ると、ドアのところにジェイドが立っていた。開け放たれたドア枠に片腕を預け、いたずらっぽい笑みを浮かべてこちらを見ている。


「何?」


 ハリエットは少し訝しげに問い返すと、視線をエイトに戻す。


「もしかして、エイトを迎えに来たの?」


 その言葉に、ジェイドは肩をすくめて軽く笑った。その様子に、ハリエットの眉がわずかに寄る。


「アルフレッドは?」


 ハリエットが問いかけると、ジェイドは部屋の奥を指差して答えた。


「シャワーを浴びに行ってるよ。それより――お前、あいつに手袋のことを話したりしてないよな?」


 触れたものから意図せず、映像や感情、記憶の欠片が流れ込んでくるという奇妙な能力――そんな秘密を知られるわけにはいかなかった。


「話すわけないでしょ」


 一度言葉を切って、呆れたように肩を落とす。


「成り行きで、仕方なく、今晩うちに泊まることになっただけ。そもそも、彼は今日会ったばかりの初対面の人間よ? 絶対に知られたくないことを、よく知りもしない他人に言うわけないじゃない」


 という言葉を少し強調しながら、ハリエットは視線を天井に向けた。だが、それでもジェイドの表情は険しいままだ。


「わかってるならいいけど、あいつ、何考えてるか分からないだろ? お前の能力のことは絶対に知られちゃダメだ。気を付けろよ」


 兄の心配性には少しうんざりしてしまう。それでも、ハリエットは肩をすくめた。


「だから、わかってるってば。十分に気を付けるし、うっかり外して触ったりなんてしないわ。予備もちゃんと明日持って行く鞄に入れておくし、フォーマルな場所だから手袋をしていても変じゃない。それに、一緒にいる時間なんてたった数時間よ」

「予定外のことが起きなければな」


 ジェイドは念を押すように言い残すと、難しい表情をしたまま部屋を出て行った。その背中を見送りながら、ハリエットはベッドの上でくつろぐエイトに目を向ける。


「……心配し過ぎなんだから」


 ぽつりと呟いても、エイトは知らぬ顔でのんびりと毛づくろいをしていたが、やがてふわりと身をひるがえして部屋を出て行ってしまう。


「薄情者」


 小さくぼやきながら、ハリエットはドアの方に目をやる。その瞬間、不意に声がかかった。


「――僕のことかな?」

「ひゃっ!?」


 驚いて顔を上げると、濡れた前髪をぺたりと垂らし、タオルを肩にかけたアルフレッドが立っていた。シャワーを浴びたばかりのせいか、少し子供っぽく見える顔立ちに、一瞬ハリエットは目を奪われた。だが、すぐに視線をそらし、そっけなく言い返す。


「……別に。あなたのことじゃないわ。エイトが薄情だっただけよ」


 アルフレッドは軽く首を傾げたが、すぐに目を細めて笑う。


「ベッドまで整えてくれるなんて、君は優しいね」


 さらりとした言葉に、ハリエットは一瞬戸惑ったが、すぐに目を伏せて短く答えた。


「別に、優しくなんかないわ。あなたはお客様だし、その。母に言われたから――」

「僕のために? ありがとう」


 アルフレッドのさらりとした言葉に、ハリエットは面食らいながらも視線を逸らした。


「大したことじゃないわ」


 言葉少なにそう答えると、エイトが居なくなったことにより、整えやすくなったベッドを手早く整え、確認し、部屋を出ようとする。だが、その背中をアルフレッドが不意に呼び止めた。


「ハリエット」


 振り返ると、彼は少し迷ったような表情を浮かべている。視線を一度壁に逸らした後、伏し目がちに視線を上げ、ゆっくりとこちらを直視する。南洋の海色の瞳が光を受けて柔らかく見えた気がした。


「オークションに参加できたのは君のおかげだ」


 予想外の言葉に、ハリエットは目を瞬かせた。


「……別に、私は何もしてないわ。ただ、ヘンリーに頼まれたから、しょうがなく行くだけ」

「いや、君のおかげだよ。ありがとう、ハリエット」


 そのまっすぐな瞳と素直な言葉に、ハリエットは一瞬だけ言葉を失った。何か返そうとしたが言葉が見つからず、結局「お休みなさい」とだけ呟いて逃げるように部屋を出る。


 廊下を歩きながら、彼の意外な一面に毒気を抜かれた自分に気付き、ハリエットは首を傾げた。


「本当に、何考えてるのか分からないわ……」


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