ハリエットは静かな寝台の上で、手袋を外した手を猫のエイトの背中にそっと滑らせた。柔らかな毛並みを丁寧に撫でると、エイトは気持ちよさそうに目を閉じたまま軽く喉を鳴らす。穏やかなその様子に、ハリエットも自然と手を止めることなく撫で続ける。
「どうしてこんなことになっちゃったのかしらね」
誰にともなく呟く声が部屋に溶けていく。
不意に、事務室でのヘンリーとアルフレッドの会話が脳裏をよぎる。
『あなたの亡くなった姉君。ミズ・メリッサ・ウォーレンとその死にまつわる真相を暴くため――』
『もしティアーズに入れたら指環をどうするつもりです?』
『オークションにもし参加出来たら、指輪を間違いなく手に入れるだろうね』
「姉を殺した犯人」に繋がる手掛かりがフェレイユ社のオパールの指環。本物でも偽物でも、犯人に繋がる鍵になるという。
「お姉さんの、命を奪った犯人を……捜すために……」
目を閉じれば、脳裏にその瞬間が鮮やかによみがえる。
暖炉の揺らぐ炎が、アルフレッドの輪郭を濃く描き出していた。
それはまるで、隠しようのない復讐の感情そのもののような気がして、ハリエットは軽く身震いする。ほんの一瞬だけ、きつく鋭い光を灯した南洋の海色の瞳が忘れられない。
それと同時に、彼がリビングで「家族のことを宝物だ」と語っていた時の様子が心に蘇る。
寂しげな表情と、ほんの一瞬だけ曇った瞳。
何もかもを一人で抱え込むような、あの姿が胸に刺さる。
ふわりと浮かんでは消えていく疑問を振り払うように首を振り、ハリエットは再びエイトに視線を落とす。
茶色の毛並の猫はハリエットの手の動きに合わせるように喉を軽く鳴らしている。かすかな体温が、冷えた掌からじんわりと伝わり、その温もりがまるで冷えた心をそっと包み込むようだった。
静寂が部屋を満たす中、ハリエットはただ目を伏せ、エイトの柔らかな毛並みに触れながら、揺れる思いを胸の内にそっと押し留めた。
***
アルフレッドは、サイドテーブルに並べられた二つの指環を無言で見つめていた。
どちら
どちら
ハリエットの店で購入した指環は、丁寧にケースに収められていた。まるで何かを試すように、何かを試すようにじっとこちらを見ているようだった。
白地に星々の煌めきを閉じ込めたような鮮やかな輝きを放つオパールは、これまで手に入れてきた模造品の中でもひときわ目を引く美しさを持っていた。そのあでやかな輝きは、ただの模造品以上の価値を感じさせる何かを纏っているような気さえする。
小箱の隣、机の上に無造作に置かれた指環に視線を移す。
「……」
明るい金色のリングに収められた中央の石。
その宝石は、どこか曖昧で頼りない印象を与えた。薄いクリーム色の地に散りばめられた赤と緑の光が、不規則に揺れ動く様子は、美しさというよりも、不安定な感情を宿しているかのようだった。
アルフレッドはしばし、二つの指環を見比べ、そっと吐息を零す。
「フェレイユ社の、オパールの指環……」
自分の目的は「指環を集めること」。
本物であるか偽物であるかなど、最初から問題ではない。
重要なのは――奴もまた、指環を集めているという事実。
姉を殺した犯人が執着していた「フェレイユ社のオパールの指環」。
それを追い求める限り、いつか必ず犯人に辿り着くはずだった。
それだけが、――たったそれだけの手掛かりが、アルフレッドにとっての生きる理由であり、人生そのものだった。
視線を落とし、枕元の懐中時計に目を留める。透かし彫りが施された繊細なデザインの奥に、動きを止めた文字盤が静かに横たわっている。
時計を手に取り、蓋を開けると、菫色の石が埋め込まれた美しい文字盤が現れる。それは、彼にとって唯一無二の存在だった姉が二十歳の祝いに贈ってくれたものだ。人生はじめての肉親からの贈り物が、人生最後の贈り物になるなんて、誰が思っただろう。
けれど姉が亡くなったその日、時計の針もまたぴたりと止まった。
修理すれば、また動くのだろうか――。
そんな思いが頭をよぎるものの、彼の手は動かなかった。
今ではない――その時は、まだ訪れていない。
アルフレッドは指環のケースを手に取り、パチンと音を立てて静かに蓋を閉じた。音が部屋の静寂に溶ける中、ただ深い闇の中で赤黒い感情が
*****
暗闇の中、男は指先に黒い手袋を嵌め、オパールの指環を絡めるように慎重に扱いながら、じっくりとその表面を眺めていた。
机の上、台座に設置された小さなランプの明かり以外には、部屋には一切の光源がない。暗闇に浮かぶその微かな光が、部屋全体を影絵のように形作っている。
彼の前に置かれたガラス張りのケースの中には、七つのよく似た意匠の指環が整然と並べられていた。
男はその中の一つを摘み上げた。台座にセッティングされたオパールは白濁し、中央に大きなクラックが入っている。かつての輝きは失われ、他の指環とは異なり無残な姿をさらしていた。
しかし、男はその指環を軽蔑することも、ぞんざいに扱うこともなかった。むしろ、大事にするかのように丁寧に中へと戻す。その手つきには、どこか執着と哀愁が滲んでいた。
ケースの傍らには、無残なしわが刻まれた封筒が横たわっている。
封を切られたままのその封筒は、今にも崩れ落ちそうなほどに薄汚れているが、端正で細い筆跡で記された宛名だけは、まだ鮮やかに男の名を告げていた。
その隣には、一部の新聞が無造作に置かれている。見出しには大きな文字が躍っていた。
『資産家の邸宅に強盗侵入。貴重な装飾品が行方不明』
男の視線が、一瞬だけ新聞の見出しを横目で捉える。しかし、それ以上読むことはなく、手に触れるわけでもなかった。
代わりに、彼は封筒に一瞥をくれる。その目には、微かな怒りとも悲しみともつかない感情が揺れていたが、すぐにその瞳を閉じ、静かに闇の中へと沈んでいく。
部屋に響くのは、男自身の呼吸音と微かに軋む床の音だけだった。