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第二章

第14話.無垢なる者

 ティアーズの入口に車が滑るように停まった。


 ドアマンがすかさず寄り添い、アルフレッドが先に降りた。品のある仕草で背を伸ばした彼は、ハリエットに手を差し出す。


 今日のアルフレッドは、ダークグレーのスーツに白いシャツ、そしてグレーのベストを合わせていた。ジャケットは体にぴったりとフィットし、胸ポケットには白いチーフが差し込まれている。艶やかに磨かれた焦げ茶色の革靴は光を反射し、全体に落ち着いた余裕を漂わせる装いだった。


「さあ、お嬢さん。準備はいいかい?」

「……気後れしてる暇なんてないでしょ。」


 ハリエットは少し不安そうな表情を浮かべながらも、手首を外れないように指先までしっかり引っ張って、彼の手をありがたく借りながらできるだけ上品に見えるよう車を降りた。その瞬間、冷たい冬の空気が頬に触れ、目の前の光景が一層鮮やかに映り込む。


「わぁ……。これがティアーズ」


 自然とため息が零れる。


 建物は白く輝く石材で作られ、歴史的な威厳と現代的な洗練を併せ持つ佇まいだ。高くそびえる柱が左右に並び、その間には磨き上げられたガラス扉が控えている。入口の上方には、金色の文字で「TEARS」と記されたシンプルなロゴが掲げられており、その存在感は過度に主張しすぎず、見る者に自然と目を向けさせる。


 玄関前の石畳は綺麗に磨かれ、道幅の広い車寄せが設けられている。あたりにはきらびやかな装飾はないが、シンプルながらも細部にわたる意匠が建物の格式を物語っている。


「歴史を感じる立派な建物だよね。さすがは世界最古のオークションハウス。敬意をもって臨まないとね」


 手にしていた懐中時計をカチリと閉じ、横に並び立ちながら茶目っ気たっぷりの口調で左腕を差し出すアルフレッドに、ハリエットは一瞬躊躇し口ごもる。


「ねえ、これ本当に私が入っていい場所なの?」

「大丈夫だよ。取って食いやしない」

「だけど、場違いじゃないかしら……」


 ハリエットが不安そうな声を漏らすと、アルフレッドはあっけらかんとした様子でこちらを見下ろした。


「服装を見る限り、問題ないさ。むしろ――」


 少し下がり、距離を保ったアルフレッドはハリエットの姿を頭の先から足元まで眺め、顎先に手を当てて口を閉じた。真剣な表情に、ハリエットは表情を強張らせ、自分の体のあちこちを見下ろす。


 何を着ていけばいいか悩みすぎて胃が痛くなったところ、母の助けを借りて何とかコーディネートを整えたのだが、やはりどこかおかしかっただろうか。


 ハリエットは深い藍色のシルクワンピースに、黒いベルベットの手袋と小ぶりなクラッチバックを合わせていた。ワンピースには肩から肘まで繊細なレースの袖が施されている。亜麻色の髪は、後ろでシニヨンにまとめ、母から借り受けた真珠の耳飾りを身に着けている。足元は低めのヒール付きパンプスだ。


「やっぱり、変よね。でも、今から着替えに戻るのも――」

「心配ない。大丈夫だ。今日の君はかなりキマってる。――マジで」


 手を横にスライドさせながらジェイドの真似をするアルフレッドに、ハリエットは耐えきれずに小さく噴き出した。慌てて口元を抑え、眉根を寄せてくすくすと笑う。


 アルフレッドはうん、と頷いて再び腕を差し出す。


「さて、行こうか」

「うん……、わかったわ」


 促されて、再度しっかり腕を絡めると、ハリエットは目の前にそびえ立つ老獪ろうかいな巨象の口のような扉に向けて足を踏み出した。





 ****





 黒服のドアマンに迎えられて中に入ると、そこは別世界のようだった。


 入り口を抜けた瞬間、煌めく光に包まれる。


 天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、数百ものクリスタルが虹色の輝きを放っていた。目にも艶やかな光景に、一瞬眩暈がするような心地がして、ハリエットはきつく目を瞑る。


「これ、ロビーだけで高級ホテルのフロア並みね……」

「そう? 普通だと思うけど」


 アルフレッドは意に返さない様子で、ハリエットをエスコートしながら、入館者のチェックを行っている様子の警備員に視線を走らせている。アルフレッドの横顔が少し緊張したように引き締まっているのを見て、ハリエットは生唾を飲み込んだ。


 彼の視線の先には、かなり入念に身体検査を行われているスーツ姿の男がいる。警備員たちが慎重に手を動かす様子から、この場所がいかに慎重に管理されているかが感じられた。


「厳戒態勢ね」


 ハリエットが警備の様子に驚き、目を大きく見開くと、アルフレッドは少し視線を外し、少し意地悪そうに言った。


「そうだね。でも、当然と言えば当然かな。歴史的にも美術的にも価値が高いものばかりだからね」

「それはそうだけど」


 まったく関係のない部外者である自分たちを、こうして快く受け入れてくれたヘンリーには、心から感謝するしかなかった。ハリエットは改めて、その恩義を深く感じていた。


 その時、アルフレッドがふと考え込んだように、体を寄せると低い声で問いかけてきた。空気が動く気配と共に、温かい体温が腕越しに伝わる。


「そういえば、僕たちの入館パスはどうなってるんだっけ?」


 前の客がセキュリティチェックを終えるのを待ちながら、アルフレッドが軽く耳打ちしてくる。その言葉を思い出し、ハリエットは記憶をたぐり寄せる。


「ええと、確か、ヘンリーが持って来てくれることになって……。ホールで待ち合わせって話だったわよね? 警備の人にも事前に話してくれるって言っていたけれど」


 その時、突然、警備員が二人、彼らの前に立ちふさがった。


「失礼ですが、入館パスを拝見できますか?」


 ハリエットは思わず息を呑み、アルフレッドを見上げた。



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