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第16話.暗闇の中の赤




 展示会場のまばらな人々の間に一箇所だけ人だかりができている場所があった。ハリエットとアルフレッドは自然とその方向へと足を向ける。


 入れ代わり立ち代わり、僅かな時間の中、よくよく吟味するような視線と人の合間を縫って、間近に接近したその指環はとても美しい輝きを放っていた。


 真四角のガラスのケースに入れられ、灰色の塔のような台座に乗せられている。


 照明が絶妙な角度で当てられることにより、その輝きが見事に際立つ。細やかに浮かび上がる青や緑、黄色やオレンジの合間を縫って、赤い閃光のような見事な光が迸っている。アクアリウムのような煌めきともいえるが、オーロラを思わせる色の移り変わりはまさに最高級品質の名にふさわしい。


「すごい……。 こんなに美しいブラックオパール、初めて見るわ」


 ハリエットの瞳が熱を帯び、興奮した口調で話し続ける。


「角度を変えるたびに赤、青、緑がまるでモザイク画のように輝くの。ほら見える? あの赤い色の遊色。しっかりした黒地の中に浮かび上がる緋色がなんて美しいのかしら。黄色や緑のコントラストも素晴らしいし、光の粒が大きく細やかだわ。イミテーションじゃ絶対に出せないこの、レッドイン――」


 先ほどまであんなにうるさかったのに、今はやけに静かだと、ハリエットが隣を見やれば、アルフレッドは懐中時計を取り出し、淡々と時間を確認しているだけだった。


「……ねえ、何しに来たのよ?」


 指環の正面から右へアルフレッドの体を押しのけるように移動すれば、小気味よく噴き出すような声が耳に届いた。パッと振り返ったのは、ハリエットだけではない。近くの幾人かが同じように振り向き、そしてすぐオパールに視線を向け直す。


 そのまま声の方向を見ると、やや後方。俄かに集まっている人垣の少し後ろの数歩下がった位置で、杖を突いた紳士が立っていた。パッと見、兄のジェイドと同じか年上くらいだろうか。


 ハリエットは急いでアルフレッドを両手で押しやると、クツクツと面映ゆそうに肩を揺らしている男性の近くに足を運んだ。


 顔半分を覆う手をゆっくりと下ろしながら持ち上げた面立ちの左目部分には黒い眼帯をしており、銅色の瞳が印象的に光る。少し長めの黒髪をうなじで束ね、こちらに気づくと数歩歩み寄ってきた。右足の動きがわずかにぎこちないが、よほど注意深く見なければわからない。


「失礼。ずいぶん熱心に解説していたものだから、つい気になって耳を傾けてしまったんだ」

「すみません。そんなに声が大きかったですか」


 興奮が抑えきれず、子供のようにはしゃいでしまったのだと思えば、この場に不似合いと言われても仕方がない。ハリエットは両肩を落として眉を下げた。


 紳士は柔らかな笑みを浮かべながら、アルフレッドに手を差し出す。


「いや、とても楽しそうだったのでね。――カーティスだ。カーティス・ウェインチェスター。よろしく」


 差し出された手を握り返そうとハリエットが手を伸ばしかけたその瞬間、後ろにいたはずの男が先に手を出し、前を遮った。


「アルフレッドです。どうぞよろしく。こちらはミス、ハリエット・マルグレーン。絶賛彼氏募集中」

「ちょっと! ……殴るわよ」


 ハリエットはアルフレッドを肘で押しのけた。見れば、手袋がずれかけていることに気づき、慌てて直しながら改めてカーティスに向き直る。


「彼の言うことは忘れてください。ハリエットです」


 軽く握り返し、そっと手を放すと、カーティスは一瞬言葉を探すように視線を動かしてから尋ねた。


「君は、……宝石に詳しいの?」


 先ほどの話の内容のことを示しているとすぐに分かった。ハリエットは、顔にさっと朱を昇らせて、小さく「宝石鑑定士です」と答える。


「なるほど。なら、あのオパールの素晴らしさがよくわかるだろうね」

「遠目でも素晴らしいオパールです。ティアーズの鑑定書付きなのでしたら、なおさら。イミテーションとは違うモザイク画のような素晴らしい光彩が、本当に美しくて……と、すみません。喋りすぎました」


「いや。わかるよ。春のシリーズの中で、あの指環は特別だからね。多くの人が狙うのもよくわかる」


 春のシリーズ、と聞いてハリエットはふと顔を上げた。兄とヘンリーの他にこの名称を知る男性に出会ったのはこれで二人目だ。まさか彼もコレクターなのだろうか。


 ふとした疑問が持ち上がり、ハリエットは小首を傾げて問いかける。


「ウェインチェスターさんもあの指環を?」

「もちろん。他にも気になる商品はあるけど、あれは特別だね。私はコレクターではないけれど、欲しいと思わせてしまうような何かがあると感じるよ」


 コレクターではない、と言いつつも、言葉には宝石に詳しさをにじませる響きがあった。その微妙な矛盾に違和感を覚えながら、ハリエットがさらに問いを重ねようとした瞬間、隣の男がまたしても口を挟む。


「へぇ? ――例えば?」

「あのねぇ、アルフレッド。私の肩はひじ掛けじゃないんだけど」


 のしり、とした重みを感じ、憮然と背後を振り返ると、アルフレッドがハリエットの右肩に肘をかけて、まるでリラックスするかのように体を寄せている。背の高い彼が軽く傾いた姿勢で寄りかかる様子は、やけにのんびりとしている。


「いいじゃないか。減るもんじゃないし」


 アルフレッドは肩の肘を滑らせる素振りを見せつつ、平然とした顔で答える。その軽薄な態度にハリエットの眉が一層険しくなった。


「重いから言ってるんだけど?」


 ぺい、と彼の肘を払いのけ、立ち上がらせるように肩を突き返す。その拍子にアルフレッドが一歩下がりつつ肩をすくめるのを見て、ハリエットは内心ため息をついた。


「くっ」


 またしても笑い声が聞こえる。軽やかで小さ目なその声に、ハリエットは顔を引きつらせ、反射的に謝罪の言葉を述べる。


「すみません」

「いや、仲がいいと思ってね」

「仲がいいとかでは……」


 冗談じゃない、と言いたいところではあるが、初対面の自分にそんな風に言われても嫌だろう。どのように表現するのが正しいか、思考を巡らせていると笑いを収めたカーティスが双眸を柔らかく細め口を開く。


「さっき、彼が恋人募集中だと言っていたけど、彼は好みのタイプじゃない?」


 彼の言葉に、ハリエットの顔が瞬間的に赤く染まった。反射的に声を張り上げる。


「まさか! 全然、まったく! これっぽっちも!」


 アルフレッドが横でわざとらしい表情でため息をついた。。


「それはひどいな。そんなに全否定することないだろう」

「一般論としても、あなただけは絶対にないわ! 不作法だし、口ばかり達者で、私をひじ掛けにするような男性なんてお断りよ」

「ふぅーん。じゃあ、君のタイプはヘンリーみたいな?」


 アルフレッドの言葉にハリエットは憤然とした表情で睨み返す。


「ヘンリーは今関係ないでしょ!」


 その時、唐突に横から爆笑が起こった。ハリエットとアルフレッドは動きを止め、恐々とそちらを振り向く。


 目尻に涙を浮かべているのは、またもカーティスだ。彼は片手で顔を覆いながら、笑い声を何とか押し殺そうとしている。杖を持つ手まで震えているので、相当ツボに入ったらしかった。


「あの、本当に、何度もすみません。そんなつもりじゃなくて、その、この人が――」


 言い訳を口にするハリエットに、アルフレッドがすかさず割り込む。


「君が反論するから悪いんじゃないの?」

「反論しないと、自分の都合のいいように解釈するでしょ!」

「なるほど。よく僕のことをわかっているね」


 ようやく笑いを収めたカーティスは、ゆっくりと居住まいを正す。その表情はまだ笑いの余韻を残していたが、やがて柔らかく目を細めて言葉を口にする。


「いや、本当にすまない。うちの妹にそっくりだと思ってね」

「妹さん?」


 ハリエットが眉をひそめて聞き返すと、カーティスは笑顔を崩さずに頷いた。その視線は再び指環の展示ケースへと向かった。


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