リディがいなくなった。花嫁候補者の部屋から忽然と消えた。
臣下から報告を受けたとき、二コラは血相を変えて飛び出し、リディのいるはずの部屋へとひた走った。無様な姿だろうと構いやしない。それ以上に喪うわけにはいかないものが二コラにはあるのだ。
「殿下、お待ちください!」
虚を突かれた近侍が慌てて護衛に追いかけてくる。護衛などとは名ばかりの監視役たちに反吐が出る。官僚たちは裏でさぞや忌々しげな顔で陰口を叩いていることだろう。
『花嫁候補の一人や二人、途中で逃げ出す者など捨て置けばいいのですよ』
そのためにふるいにかけて候補者たちを王宮に集めているのだ。十人のうち一人や二人いなくなろうとも残りの候補者たちがいる。それで足りないというのなら補欠で十一番目や十二番目の花嫁候補を追加で呼べばいいだけの話。現時点でトップになれない者などに固執することなどないのだ。まして、過去に失態を見せたヴァレス侯爵の娘を王室にいれればどうなることか。むしろ排除されて然るべき――と。
『なぜ、殿下はそこまで執拗に拘るのでしょうね』
『特別な関係にあったことは?』
『ありません』
やがて官僚たちは二コラの王太子としての資質に疑念を抱きはじめる。世継ぎはただ一人しかいらっしゃらないというのに――王室に異を唱えはじめた宰相ベリル・ロードライトがため息を零す。やがて王室内の派閥論争へと話は変わっていく。このところずっと同じことが繰り返されている。いい加減に辟易した。
なぜ、うまくいかなくなった?
なぜ、【世界】が停止している?
なぜ、【時間】が機能しない?
(特別な関係がないわけがあるか……!)
二コラの脳裏には幼い頃の【罪】が賽子のように転がってはその黒い面を見せる。けっして消えない穢れた墨の色。擦切れようとも真っ白にはなれないままにその黒い数を増やしていった。
【因果応報】とはこのことを言うのかもしれない。
だが、それでもいい。彼女だけが味方だった。彼女を側に置けるのならもうどうだっていい。破滅的な衝動がこみ上げてきたそのとき、辿り着いたリディの部屋を見渡し、二コラは咆哮する。
「どうしてだ――!」
もぬけの殻になったその場に、無気力に崩れ落ちてその場に膝をついた。
「どうしてなんだ。僕は……力を手に入れたはずだというのに」
黒い影が笑っている。自分とそっくりの顔をした憎らしい影が嘲笑うように見下ろしている。その黒い影はかつての自分の所業に言及した。おまえがしてきたことはなんだ、と。
悍ましい罪の数を増やした賽子がぐるぐると目の前で廻っていく。罪が増える分だけ、また罪が重なっていく。そうして二コラは自分を見失っていた。
「仕方ないじゃないか。そうするしか……なかったんだ!」
二コラは闇に浮かぶ自分の影を打ち消すように腕を振り払う。べっとりとした【執着】が二コラに手を伸ばしてくる。机の上の山のような書類が崩れては宙へと舞う。
頭を抱えてその場にうずくまる。
壊れそうなほどに心臓の音は鼓膜を震わせていた。
胸の内にこみ上げてくるのは激しい憎悪と嫉妬。それらを形成した執着心だった。
許さない。許せない。許せるはずがない。
どうして僕を見ない?
彼女は僕のものだ。
彼女だけは僕のものであるべきだ。
あの男だけは許さない。
僕と彼女の間に邪魔をした。
忘れるべきだったんだ。
殺してやる。
あの男を殺してやる。
そしたら彼女は僕のものになるだろう。
「ああ、許さないよ。リディ。君は僕のものだ。君は誰のものでもない。君は……永遠に、僕だけのものだ」
もしも彼女があの男を選ぶというのなら。
僕があの男を殺す。
僕のものにならないというのならいっそ――。
君を……殺してやる!