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35)

(全然知らなかった。ジェイドは……私が知らない間にも、ずっと前から私と結婚したいと思っていてくれたのね)

 ジンと胸の内が甘く痺れる心地になる。ジェイドがやさしくしてくれることには意味があった。彼のリディへの想いが常にそこに在ったからなのだ。

 彼の意外にも健気な想いに、リディは驚きと共に喜びを隠しきれなかった。胸がいっぱいでジェイドに伝えるべき相応しい言葉がすぐには見つからない。

 しばしやさしい沈黙が横たわったあと、ジェイドの表情が険しいものへと変わった。

「――それから今日を迎えたわけだが。どうもユークレース側の考えがわからなかった。三ヵ国が三竦み状態を強めたのもそのあたりからだった。そのまま国交を断絶するつもりでいるのか、書簡も途絶えるようになった。やがて当然のように四季の祝祭への招待もなくなった。王太子という身分でこちらから外交の場に赴くことができなくなった。ユークレース王国内で何かが変わっていったことだけは確かだった。それが不可解だった」

「ひょっとしてそれで……あなたは忍び込んだ?」

「そうだ。信頼できる筋の間者を送ることも考えたが、他者の手を借りればどこかで情報が錯綜する。不可解な状況を打破するためには直接、自分の目で確かめたかった。万が一、俺に何かがあってもうちには兄上がいる。身体的な理由から王位継承権を俺に譲ったとはいえ、兄上はこの国の叡智と頭脳だ。優秀な部下もついている。指揮をとれないわけじゃない。そして、何よりこの作戦に必要な、手引きをしてくれる人間がユークレース王国内にいたからな」

「その人物って……」

 リディの脳内に何人かの人物が思い浮かんでいた。けれど、ジェイドはかぶりを振った。

「そのあたりはいくらおまえ相手であっても、俺の口からは言わないでおこう。誤解はしないでほしいのだが、おまえを信頼していないからではない。先方と約束し合ったからだ。国内に抱えている憂い、そしてこれから先に目指すものは同じなのだ、と」

「目指すものは同じ……」

「ああ。両国をまた友好的な関係へと導きたいと願っている人物だ」

 リディは不意に二コラが声を荒らげていた姿を思い浮かべた。王室内に派閥があること。官僚たちの困惑する様子。宰相ベリル・ロードライトが独断で動いていると言っていたこと。

 もしかして、と思い浮かんだものの、リディもまたその名は言葉にしないことにした。

「話を元に戻すが、俺はユークレースの様子を見たかった。ついでにいうとおまえの姿も見ておきたかった。しかし祝祭に参加するには、招待状は手渡しでなければ入手できない状況だった。書簡が送られるのを妨害され、送られたとしても紛失されるように仕組まれていたからな。だから、俺はその人物に接触をしてなんとか自力で手に入れる必要があったんだ」

「そういう、ことだったのね。あなたが間者として王宮に忍び込んでいたのは」

「ああ」

 何事にも起因となった背景や理由がある。

 不可解なユークレース王国内の動き……そこにはおそらく二コラが一枚噛んでいるのではないか。リディはそんなふうに考えてしまう。そう考えると、【時戻し】の件も腑に落ちるのだ。

 リディがそう口にしようとしたとき、何かの【抑止力】のようなものが働いた。喉のあたりがぎゅっと締められるような居心地の悪さ、そしてその先へと進ませないという何かの【拒絶】。

 不意に、白装束の男の言っていたことが脳裏にまた蘇ってくる。

『いいかい? 恐れに立ち向かうためには【識る】ことが必要。学びは大事だ。愚鈍のままでいてはいけない。君の中にあるものと目を逸らさずに向き合ってほしい』

『私の中にあるもの……それは、私が忘れていること? それとも、これから知らなくてはならないこと?』

(私が忘れていたことは、ジェイドのことだった……? そして、ジェイドが関わっていた背景を知った。このことを言っていたの?)

 リディは思わず自分の喉のあたりに手をやった。そこからじりじりと焼けるような痛みが広がり、やがて胸から腹の方へと移動していく。

(何か、熱いものが……)

 何が起きているのかわからなくてパニックになりそうになる。

不意に、短剣で刺されたときのことが蘇ってきて血の気が引いた。

「っ……いたっ」

 意識すればするほど、抉られるような痛みが這い上がってきた。

あの、時戻しのあとにしばらくの間感じていた幻痛にも似ているようだ。

 ざっと脳裏に映像がちらついた。

(……え?)

『……高熱でうなされていたんだよ』

『大丈夫。すぐよくなるよ』

 幼い頃の記憶。その断片的な何かが、硝子の刃のようにリディの胸や腹に降り注いできた。

「……な、に……」

 とっさに目を瞑ってぎゅっと身を固める。

「リディ?」

 異変に気付いたジェイドが慌てたようにリディの顔を覗き込む。

 リディが胸や腹部を押さえるように身を丸めると、

「見せてみろ」

 急ぎドレスを脱がせ、リディの素肌を確認したジェイドは眉根を寄せた。

「これは……」

 彼の驚愕の声にリディも不安になってしまう。

けれど、それとは真逆に症状はゆっくりと落ち着いていくみたいだった。

「……ジェイ、ド」

 息苦しさが少しずつ消えていく。それに伴い痛みも霧散していくようだった。

ジェイドは狼狽えている。一体、何が起きているのだろうか。

「今度は消えた?」

 ジェイドの困惑は続いている。リディはとっさに自分の身体の方へと視線を動かす。

「……消えた?」

「ああ。おまえの肌に、茨のような朱が浮かんだんだ。一瞬だけだったが。今は……何もない」

 ジェイドがやや焦ったようにリディの肌を確かめている。

 ふと、リディの中に以前にジェイドから言われた言葉が蘇ってくる。

【殺意】という名の【呪い】。

「呪い……?」

 リディの呟きに、ジェイドがハッとした顔をする。

「まさか。だが、もうそれは消えた。気分はどうだ?」

 神妙な表情を浮かべ、ジェイドがリディの顔を覗き込む。

リディは彼を安心させたくてすぐに頷き返してみせた。

「ええ。もう平気みたい」

「そうか」

 ジェイドがほっと胸を撫でおろす。それから慌てて脱がせたために乱れたドレスを戻そうとして手を止めると、ジェイドは何を思ったのか、露わになったリディの素肌にそっとキスをした。

「ジェイド……何っ」

仰け反ってしまうと、ようやくジェイドが唇を離した。そしてリディをやさしく見つめてくる。

「大丈夫だ。何も怖いことは起きない。おまえのそばには俺がいる」



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