目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

37)

 オニキス王国にリディが連れてこられてから、ひとつの季節を越えようとしていた。

 しばらくはユークレース王国が奪われたリディを奪還すべく何か行動を起こすかもしれないという警戒を敷いていたが、それは杞憂のまま……いつの間にか春の祝祭から夏の祝祭へと移ろっていく。

 ジェイドの見解では以前と同じように『あったこと』を『なかったこと』にして『もみ消した』のだろうということだった。ユークレース王国の王室から『花嫁候補者の一人であるリディ』という存在は消えた。

 リディは以前に『花嫁一人が消えるくらいどうでもいい』というようなことを二コラが言っていたことを思い返していた。きっと官僚も上位の花嫁でないなら重要視はしていない。二コラの本心がどこにあるかはわからないが、二コラに愛想を尽かされ、そして見限られたということなのかもしれない。

 花嫁候補者たちがどうなったのかはわからない。だが、予定通りであれば、花嫁選定期間は春の祝祭から夏の祝祭の間に選定され、王太子の戴冠式が行われる秋の祝祭の頃には決定する。それから、冬の祝祭に誓約書を交わし、翌春に結婚式を行う予定となっている。

 その中でも秋の祝祭の頃を見計らって、ジェイドは約束通りにユークレースと繋がりを持つ人物と融通を図ってもらい、ヴァレス侯爵の身をオニキス王国に迎え入れる手はずを整えていた。

 野心家であるヴァレス侯爵の身辺調査をした上で王室内の官僚に取り立ててもいいという話をしたところ、ヴァレス侯爵は二つ返事で了承した。残された領地と領民についての対応もジェイドと繋がりを持つ人物に任せることになったという。

 それらが一段落する頃には目論み通りに秋の祝祭を過ぎ、豊穣祭の季節が訪れ、冬の祝祭の前にリディはジェイドとの結婚式を控えることになった。

 スフェーンは盛大に祝宴を開きたいと言ってくれたが、現時点ではまだ色々と落ち着かないことがあるのですぐに披露宴のようなものは行うのはリディとしては躊躇われた。それはジェイドも同じ意見で、少なくとも春の祝祭まで待つ必要があると考えていた。

 しかしそのまま花嫁を攫った状態にしておくのはよくないだろうということで、まずは神様に誓いを立てる、二人だけの挙式を行うことになったのだった。

 挙式当日――。

 二人はオニキス王国の王宮内に設えられた、神殿の前に案内された。

 リディは純白のウエディングドレスに。そしてジェイドは白いタキシードに身を包んでいた。リディが持つブーケには白い小花をあしらった百合を。その一本をブートニアにしてジェイドの胸ポケットに一輪挿した。

「おまえに、とてもよく似合っている」

 ヴェール越しに透けて見えたジェイドの表情は、いつになく紅潮している様子だった。

 リディもまたいつもとまた違った神聖な雰囲気に包まれているジェイドにドキドキしていた。

 二人で共に神殿の先へとゆっくり歩いていく。神殿は静謐な空気に包まれ、祭壇の前には他に誰もいない。誓いを立てるのは、神の化身である祭司の前ではなく、この先の未来を願うお互いの、その魂へと捧げるもの。その信仰の習わしは、オニキス王国でもユークレース王国でも同じ。王族は皆そうして縁を結んできたのだという。

 ここでリディは、オニキス王国の時期王となる王太子ジェイドと魂の誓いを捧げ、そして彼だけの花嫁……彼の妃であることが証明されることになる。

「愛している。リディ。この先もずっとおまえを大事にすると誓う」

「……私も誓うわ。あなたのことをずっと大切に想い続けるって。ジェイド、愛しているわ」

 心臓に繋がる薬指へ指輪を填め、互いの誓いの言葉と引き換えに、双方の唇が重ねられる。それは互いの人生が重なって交わることを意味する儀式だ。命の灯がある限り、互いの愛を伝えあって生きていく約束の証。

 ユークレース王国にいたときには考えられなかった未来がここに在る。

 【世界】はこの結末を認めてくれるだろうか。オニキス王国に攫われてきたのが新たな【分岐点】だとたらここは消されるべき【特異点】ではなく、【世界】が望む正しい姿であるのだと。

 誰もいない神殿の中での厳かな誓いと共に唇を重ねたあと、二人は初夜を交わすことになっている。その月明かりが注がれる寝殿の奥の寝台に二人で横たわると、リディを見下ろしていたジェイドが間近に顔を近づけてきた。そしてリディの頬を指先でくすぐった。

「何を考えている? 儀式は済んだ。今ならばおまえの胸の内に在るものをここで言葉にしても構わない」

 ジェイドが囁きかけてくるその声はいつものように甘い響きを伴ってリディを心地よくさせてくれるものだったが、何かを案じるような色も含まれていた。きっと考え事を見抜かれてしまったのだろう。彼に余計な心配をさせてしまったかもしれない、と反省する。

「今まで色々あったから、あなたとこんなふうに幸せな気持ちを共有できるようになったことが嬉しくて……」

 その先に言葉を続けるのを躊躇っていると、案じたらしいジェイドが代わりに口にした。

「不安、か。リディ……おまえの中にある不安は、俺がすべて引き受ける」

「ジェイド……」

「だが、気になることがあればなんでも言えばいい。抱え込む必要はない」

 側にあった水盤が揺らいだ拍子に水滴が音を立てた。

リディはジェイドを見つめ返し、胸の中に波紋を広げていた、あることを口にする。

「あれ以来、シメオンの姿は見ていないのよね」

「そうだな」

「じゃあ、この【世界】は望まれるものだったと思っていいのよね?」

「現時点ではそうなんだろう。ただ、すべての安寧が続くとは俺は思っていない。実際、ユークレース王国の王太子殿下はおまえのことを諦めてはいないようだからな」

 ジェイドが小さくため息をつく。

 うわべだけで大丈夫だ、と言い切らないところがジェイドらしかった。飾った言葉では、リディを本当の意味で安心させることができないと彼はわかっている。

「懸念点はいつもどこか頭の隅に置いておくべきだ。それが、何より自分たちを護る盾になる」

「……ええ」

 懸念点――それが、オニキス王国に匿われて数ヶ月が経過し、ジェイドの花嫁になることが決まったあとも、リディの脳裏にふとよぎることがあるのだ。

 執着をしていた二コラがまだ諦めていない世界が続いているのならば、この先に永遠はないかもしれない、ということ。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?