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40)

 その日の夜。リディはどうしても胸騒ぎがして寝付けなかった。

 深夜過ぎにジェイドが戻ってきてくれてやっと息をつけた心地になった。

「ジェイド……お父様のことだけれど」

「すまない。問題なく進めるつもりでいたんだが、行き違いがあったようだ。もう少しだけ待ってくれ……」

「ええ。疲れているのに催促するような真似をしてごめんなさい。私のために動いてくれているのに」

「いや。気にかけるのは当然だろう。おまえにもなかなか構ってやれなくてすまない」

「それは平気よ。こうして一緒にいられるだけで、私は……」

「あまり健気なこというな。眠る間も惜しんでおまえが欲しくなる」

「……っ」

 ジェイドがリディの頬をかすかに指で触れる。眠る前に口づけを交わして、それから抱きしめられると、そのぬくもりに充足した気持ちが戻ってくる。

(大丈夫よね……)

 ジェイドも対応に追われているせいかかなり疲れているようだった。毎晩のように愛の営みを欠かさない彼だったが、今夜ばかりはリディを腕に抱いたあと、そのまますぐに眠りに落ちてしまった。

(大丈夫……)

 リディはジェイドの温もりに身を寄せながら何度もそう言い聞かせて、瞼をぎゅっと閉じた。



 翌日の午後――。

 改めてヴァレス侯爵の到着が遅れている報告がなされた。対応に当たってくれている者たちがいる中、リディは相変らず落ち着かない気持ちでいた。

 待ちわびているうちにやがて空は茜色に染まっていく。本来ならば既に到着しているはずの船が来ないという状況に城の中はまた慌ただしくなっていた。

「じゃあ、僕は様子を見に行ってきますね。ジェイド様に報告したらすぐに戻ってきますから」

「ええ。気をつけて行ってらっしゃい」

 ちょうど部屋の近くに待機していた衛兵も交代の時間に入った。レオはしばらく頼みます、と衛兵に言い残して出ていった。

 リディができることは部屋に残って刻々と時間が過ぎていくのを待つばかり。この数ヶ月、リディは王妃教育の一貫として様々な習い事や勉強をしている。だが、今日は机に向かう気にはなれなかった。

 どうしてこんなにも落ち着かない気持ちなのか。

 何かが近づいてきているせいなのかもしれない。

 どうしてそんなふうに感じるのか。リディは自問自答する。

 なぜかというと、この胸騒ぎが近づく感覚を、リディは記憶しているからだ。

(だめ、余計なことは考えないで……)

 どうか勘違いであってほしいと願いながらも、その恐怖が間近に迫っていることを本能的に察していた。

 いつまでも動悸が治まらない。吐き気のようなものが込み上がってくる。やがて焦燥感がどんどん強くなっていく。

 すぐに戻ると言っていた護衛役のレオが戻ってこない。いつもとは異なる気がする。何かがおかしい気がする。このまま部屋にいたら逆に危険かもしれない。

 追い立てられるようにしてリディは部屋の外へと飛び出していた……が、それは、既に罠だったのかもしれなかった。

 待機しているはずの衛兵がいない。何か異様な匂いが漂っていた。吐き気が強まりそうになり、リディは口元に手をやった。

 おそるおそる廊下を歩いていく。一階へと向かう螺旋階段を降りたその先で、血が滴る音がした。その先へ行ってはいけない。見てはいけない。すぐに立ち去らなければならない。警告が脳内に響き渡っている。

 けれど、リディは一階に到着してしまっていた。

 外間へと繋がる玄関ホールに何者かがいた。

 後ずさったとき、物音が響いた。

 胸騒ぎの予感――リディの中に巣食っていたその悪魔は振り向き、そして緋色の瞳が刺すようにリディを捉えた。

「あ、あぁ……」

 リディはそれ以上声もせず、その場から動けずに震えていた。

 悪魔の、手が真っ赤に染まっている。彼の握っていた刃は血を啜って鈍色に闇夜に煌めいていた。

「やあ、リディ。遅くなってしまってすまなかったね。君を迎えにきたよ」

 にこやかな笑顔を浮かべたつもりでいる彼の表情は、ひどく歪んでいた。眼窩は落ち窪み、乾いた目は血走っていて、口元は不気味に歪み、その様子は飢えを今すぐに満たさんといわんばかりの獰猛な獣のようだった。

 リディが後ずさろうとするよりも先に彼はひたりひたりと血を垂らしながら近づいてくる。

「残念だったね。君は他の誰のものでもないことを覚えておくといいよ。姫君」

 燃えるような執着を灯した緋色の瞳が向けられていた。

「……来ないでっ」

 恐怖に駆られたリディは叫んだ。

早くその場から逃げ出さなくてはいけないのに腰が抜けてしまって動けない。

 リディの拒絶に彼――悪魔のような形相と化した二コラは顔から感情を消した。

「君は僕のものだ。それとも彼と共に死にたいかい? 僕に殺されたいのかい?」

「……二コラ。どうしてこんなことを……」

 積み荷の中に紛れ込んでくるはずだった父の姿が思い浮かんだ。

かたかたとリディの身は震え出す。

「聞いていなかったのかい? 僕の質問に答えるんだ。リディ」

「私は……ジェイドと共に生きる。そう誓ったの」

「どうしてだ。なぜ、あの男と逃げた」

「……どうしてもっ! 彼を愛しているから」

「違う! あの男が君をそそのかしたんだろう! 君は騙されているんだ、リディ」

 動けずにいると、肩を強く掴まれて彼の血に染まった手からリディの腕に錆びた血の色がべったりとこびりつく。むっとした鉄の匂いによりいっそう吐き気がこみ上げた。

 その血は一体誰のものなのか。

 想像してはいけない。考えてはいけない。

 脳内にちらつく大事な人達を必死にかき消す。

「……っやめて、二コラ!」

 リディは涙が噴きこぼれて揺らぐ視界の中、必死に叫んだ。


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