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44)

 瞼の裏に焼き付く愛しい人の夢。

 初めて知った恋。初めて愛された記憶。

 鼓膜に響く甘い低音、その声音でやさしく名前を呼ばれたこと。

 温もりを分け合い、大切に抱きしめあったこと――。

(逢いたい……あなたに逢いたいわ。ジェイド)

 今までなら、時戻しされるたびに当たり前のように会うことができた。ユークレース王国で出会ったときのジェイドはやや高慢なところや軽薄そうに自身を見せる素振りはあったけれど、彼を知るたびに本来の彼は誠実でまっすぐな人なのだと知った。

 ジェイドは王太子という責務を果たすべく自国について真摯に向き合っているのは勿論のこと、同じ陸地を分け合う三ヵ国の未来を真剣に考えていた。

そして、リディへ純粋な愛を向けていてくれた。

 少し照れたように告白する彼のことが、たまらなく愛おしいと感じた。形式上の花嫁ではなく、自分から好きになった人と結婚できることの喜びに胸が震えた。この人とずっと一緒にいたいと心から思えた。けれど、もう……彼はリディの側にいない。

(もう逢えない……)

 リディが目を覚ますときには涙の粒がいつも朝陽の代わりに煌めく。その眩しさに新しい一日がはじまったことを思い知らされる。

 しばらくリディは二コラの息のかかった者の監視下に置かれ、手錠と足枷を填められて隔離された部屋に閉じ込められていた。

 戻ってきたばかりの頃は足枷だけをつけられていたのだが、もがいて手首が傷ついてしまった結果、 ニコラは今度リディの両手の自由を奪ったのだ。

 二コラはそれからずっとリディの様子を監視していた。そしてリディもまた二コラを警戒していた。

(こんな関係になってしまうなんて……)

 否、そもそも二コラが記憶を改ざんした。やさしかった思い出は偽物だったのだ。リディはそうして過去の幻影に度々悩まされた。

 二コラは食事や着替えなど人として生きる最低限の尊厳は守ってくれたが、彼に世話をされるのがいやだった。そうしてリディが二コラに触れられることを拒むと、彼は手出しをしてこない代わりに、リディを籠の中の鳥を鑑賞するように眺めるようになった。

 リディは二コラと会話をする気にはなれなかった。二コラは激昂してリディを責めることもあったが、どうやら器質的な疾患ではなく精神的なものだったようで、ジェイドを喪ったショックから言葉が出てこなくなってしまっていたのだった。

 声をあげても届かない。愛しい人に触れることはできない。その喪失感がリディの心を蝕んでいく。

 やがて陽の光と月の影が繰り返す中で、味のしない食事を拒絶し、泥人形のようにベッドに沈み、泡沫の夢を見るだけの日々――。

『おまえが俺の花嫁になるというのなら、生涯ただひとりだけを大事にすると誓う。他の誰でもない……リディ、俺はおまえがほしい。この気持ちだけは本物だ』

 あのとき、ジェイドの手を取った【選択】は本当に間違いだったのだろうか。

 少なくともリディはジェイドの想いに心を動かされた。そして、彼と過ごすうちに惹かれていた気持ちが初めて恋という形に変わっていき、そして彼を本気で愛するようになった。だからこそ神殿の中で彼と永遠の愛を誓ったのだ。

(そうよ。それは間違いなんかじゃなかった)

 無気力になっていたリディの中に、それでもたった一つだけ消えない焔がある。

 こんなにも【世界】に否定され、拒絶されることが悔しいなんて思わなかった。

(否定したくない。私の想いも、彼の想いも……それだけは本当だったんだって証明したい)

 でも、彼を喪った今、その証明はもうできない。

 だから、リディは一生胸に刻んでいく。

(私はこれからも永遠にあなたを愛しているわ。ジェイド……何があったとしても、これから先、ずっと……)



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