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46)

「何か、私にできることはないでしょうか?」

「何も。聞き及んでいるかと思いますが、私はオニキス王国の王太子に命運を賭けていました。ですが、もう彼はこの世にいない。ジェイド様とスフェーン様がいなくなりオニキス王国はもはや虫の息。我が国の世継ぎはあの有様。レジストタントが増えたのはそもそも彼のやり方に反発した民が増えたからです。一時しのぎで対応しても火の手は上がるばかりでしょう。そして残るライナール王国は国交断絶を決めました。教国は不可侵条約を理由に、当然こちらに手を貸すこともしません。少なくとも……この国はもう終わりですよ。王太子妃殿下」

 ベリルは力なく首を横に振る。彼の表情にはもう諦念しか浮かんでいなかった。

 リディは自分の罪を改めて受け止めた。

 この【世界】はそうなってしまっているのだ。

 リディが見捨てた二コラが闇に取り込まれて【世界】を支配する限り……最善は尽くせない。

 暫しぼう然と立ちすくんでから、リディは思い切って二コラの執務室を訪ねた。彼の姿が見えないので下がろうとすると、机の下で震えるようにしていた彼の姿があった。

「二コラ……」

「君も失望するのかい? 僕のやり方が間違えていると言いたいんだろう。あの姑息な、裏切り者の宰相のように……!」

 二コラは何かに怯えていた。癇癪を起こした子どものようだった。

「二コラ、あなたには一体どんな考えがあったの?」

 リディは二コラに問いかけた。

 このところ二コラの様子がおかしい。彼は目に見えない闇に取り込まれようとする自分を必死に振り払っている、そんなふうに見えるのだ。彼の中にまだ罪悪感のようなものが存在しているのではないか。そんな一縷の光にかけるように、リディは彼に問いかける。

「仕方ないんだ。焼き討ちしなければ、あいつらは害虫のように増殖して手に負えなくなる。国を守るために、邪魔者は消していかなければならないんだ!」

 追い詰められた顔をした二コラの震える姿を見て、彼を哀れに思う。思えば彼はいつも孤独だった。周りに味方がいなかったのだ。だからこそ、リディの存在を心のよりどころにしていた部分があったのかもしれない。そんなリディが離れていったことは彼にとって絶望の序章だったのかもしれない。

 とはいえ、たとえ同情を寄せても彼がしてきたことをすべて受け入れて許すつもりはないのだけれど。

(それでも……)

 すべてを否定するのも違う気がした。だから、一縷の光に望みを賭けたい。

 リディはある決意を胸に灯していた。そして彼の側に跪く。

「私は二コラを見捨てない」

「……っ」

「あなたの心を、時間を、取り戻したい。たとえ、過去の出来事が誤ったものだったとしても。私が嘘の記憶の上に生き続けていたのだとしても。それでも、私にとってあなたは大事な思い出の一部で、大切な人だったんだもの」

「リディ……それは、今度こそ、僕と……っ」

 二コラの瞳が潤む。闇に怯えながらそこにいるのは、幼い頃の彼みたいだった。

 ああ、どうして彼の心に気付かずにいたのだろう。彼を傷つけてしまっていたことにも気付けなかったのだろう。

 愚鈍でいてはいけない。その意味を今こそ痛感する。

「二コラ、あなたを愛せなくてごめんなさい。嘘はつけないの。だって嘘は【世界】を歪ませて、結局、人を傷つける。そうでしょう?」

「……君まで僕をそんな目で見るのか!」

「でも! 私はあなたを今度こそ見捨てない。それだけは絶対に……約束するわ」

 なんとか支えになりたいと訴えるリディの手を、二コラは振り払う。当たった指先にジンとした痛みが走った。

「もういい。君と会話をしていると、疲れるんだ……放っておいてくれ」

 二コラは膝を抱えて視線を落とした。彼の身体の震えは止まっていない。だが、声だけはひどく冷徹だった。

「今日は命拾いしたね。機嫌が悪い日だったら、君を殺していたところだったよ。勘違いしない方がいいよ。君はこの世界を変えることなんてできない」

「……二コラ」

「わかったら、さっさと出て行ってくれ!」

 二コラが変わろうとしているのなら、リディはそんな一縷の望みに賭けたいと思ったのだが、無理なのだろうか。そんな日は来ないのだろうか。国が終わっていくのをただ眺めているだけなのだろうか。自分の無力さ、不甲斐なさに唇を噛む。

 とぼとぼと部屋に戻ったリディは、久しぶりにこみ上げてきた強い嘔吐感に慌てて口を押さえた。

 ふと、あることに思い至る。

(そういえば……)

 月の触りがあれから二ヶ月以上きていない。体調が悪かったせいかと思ったが。

(ひょっとしたら……)

 リディは思わずといったふうに下腹部に触れた。

 もし妊娠しているのだとしたら、ジェイドとの間に芽生えた命であることは確かだ。

 リディの瞳からたちまち光の粒が溢れ出す。

(ジェイド……っ!)

 もう二度と逢えないと思っていた命が、ここに宿されている。ジェイドのことを思い出せば思い出すほど、恋しくて苦しくてたまらなくなる。と同時に、ジェイドとの切れない絆がここにあるのだと思うと、嬉しくて愛おしくて胸がいっぱいになってしまった。

 ひとしきり涙を流したあと、リディはふと冷静に戻った。この国で無事にこの子を産めるのだろうか、と。

 それ以前に、もしも妊娠に気付かれたら、二コラはただでは許してくれないだろう。機嫌の悪いときの二コラだったら腹を裂いてでも赤子を殺すかもしれない。或いは、生まれたあとで惨たらしく殺すかもしれない。生かした上で残酷なことを強いるかもしれない。

 せり上がってくる不安を抑えるように、リディは気持ちをゆっくりと沈めこむ。そして、深く息を吸い込んだ。

(私は……この命を護らなければいけない)

 私の【世界】を【護る】。

 リディの中にその言葉を深く刻み込んだ。

 否、護ってみせる。

 愛する人との絆を、命を、未来に繋いでみせる。

 それが、リディに課せられたこの世界の新しい時間なのだ、と。



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