――その日の夜。
リディは久方ぶりに心地のよい眠りに包まれていた。自分の中にジェイドとの繋がりが残されていることに安堵したからかもしれない。気だるさに包まれて、そのまま身を委ねたくなっていた。
明け方、少しの気分の悪さでうっすら目を覚ますと、その時チリンという鈴の音が聞こえてきて、リディははっとベッドから起き上がった。
薄暗い部屋の中にぼんやりと浮かびあがる白、そして金と青の瞳を持つその存在に息を呑む。
「やぁ。姫君。久しぶりに会ったね」
「……っあなた!」
いきなりの登場に、すぐにその続きの言葉が出なかった。おかげでリディは酸欠になりかけた魚のように唇を動かすことしかできない。そんなリディを嘲るように、彼は目を細めた。
「小生の名前を忘れてしまったかい?」
この期に及んで飄々とした態度を崩さない彼に、リディはムッとする。
「忘れるわけないわ。シメオン。私は、あなたに聞きたいことがたくさんあるわ」
干渉できないと二コラが言っていたが、何か特別なことが起きたのだろうか。やっと会えたシメオンにここぞと詰め寄ろうとすると、彼はしっと唇に人差し指をあてた。
「姫君は、随分と頼もしくなったようだ」
「あなたが現れたということは、何か活路が見出せたのかしら?」
「ご名答」
「今度は、あまり鵜呑みをしないように忠告を受けるわ」
リディはシメオンを警戒する目を向けた。彼は味方であるかどうか、未だにわからないところがある。
オニキス王国へジェイドの手をとることを決めたあと、彼はいつの間にか消えたのだ。それがリディは是だと思い込んでいた。しかし夢の中で見えた、彼の白と黒……彼は味方と言った覚えはないと告げた。あれはただの夢ではない可能性だってある。【選択】を意識すべき、【思考力】が大事だと言ったことにこそ、何か意味があるのかもしれない。
すると、シメオンは肩を竦めたあとで言い切った。
「王太子を殺せ。君が活路を見出したければ」
「え?」
「時戻しの機会は、それが最後の一度だけ。【世界】はそれが限界だ。だから小生がこうして現れたんだよ」
シメオンに提示されたその意味を、リディは重たく受け止める。そして、真意の分かりにくいシメオンをまっすぐに見据える。その間に、様々なことが脳裏をよぎった。
何度も殺されたこと、何度も時を戻されたこと、何度も出会ってきたこと、何度も失ってきたこと。
次のリディの答えは本当に最後になるのかもしれない。
しばし反芻を繰り返したあと、シメオンに彼への答えを告げた。
「いいえ。私は二コラを殺さない」
リディの選択はそれだった。
シメオンは珍しく動揺した表情を浮かべた。彼が初めて見せた人間らしい貌といえるかもしれない。
「いいのかい? 君の愛する人を喪ったまま……」
ジェイドに会いたい。声が聴きたい。彼に触れたい。恋しくて息ができなくなる夜がいくつもあった。
それでも――もう、無暗に命を弄ぶことはしたくないと思ったのだ。それは、ジェイドがリディの中に宿してくれた新しい命がそう意識を変えさせてくれていた。これから生きようとする命を大事にしなくてはいけない。
「これは、全部私の責任だから」
二コラがおかしくなってしまったことも、元を辿ればリディのせいだったのだ。そこから繋がっていたものが歪んで狂って捻じれては複雑に絡み合っていた。今後はゆっくりと時間をかけてほどいていきたい。
シメオンがどう行動するか予測がつかない。
背中に汗が伝う。
けれど、もう後悔はなかった。
リディはただ目を瞑った。覚悟を決めたことをわかってほしかったからだ。
「その覚悟を、その【選択】を、待っていた」
静かに告げられたシメオンの声に、リディは違和感を覚える。
「――え?」
「時は戻される。正しい運命の輪に……望まれた【世界】に」
シメオンが唱えると、周りが白い光に包まれていく。
リディの手からも光が零れていた。いつの間にか自分の身体が透けていることに気付く。
「待って。どこへ戻されるの! 時が戻ったら、私の中にいる……彼との赤ちゃんが!」
そればかりか、ジェイドと築いてきた記憶が失われてしまうかもしれない。
「大丈夫さ。君はまた愛する人と、その命を育むことができる。何故なら、君は必要な記憶を取り戻し、かけがえのない愛を得ることができたから」
「……っ」
異変を察したのか、二コラが部屋に踏み入ってくる。そんな二コラの影には暴れ狂う魔物の姿が見えた。
「……っあれが、魔物」
爪や牙を向けようとしてきた闇が、一瞬にしてシメオンの放った白い光へとかき消されていく。
「闇と光、ここで運命は分かたれたし……」
シメオンが唱え続けると、さらに光が強くなっていく。目を開けていられなくなっていく。
「リディ! 行くなっ! 僕を置いて行かないでくれっ!」
悲痛な叫びが響き渡った。
けれど、彼の手はすり抜けてリディを掴めない。彼の顔ももう見えない。そして声も聞こえない。
リディは最後に想いを叫んだ。
「……二コラ! きっとあなただって、変われたのよ。これからだって……きっと変われる。私は、信じているから!」
世界の崩壊がはじまったのか、足元がバラバラと零れ落ちていく。その世界は二コラが内側に作りはじめた闇が取り囲んでいた偽物だったのか、殻を破るように闇と光が入れ替わる。
「姫君は正規ルートを引き当てた。君の勝利だ」
シメオンの言葉の意味をもってリディはあるべき【世界】が守られたことを知る。
「……っ正規、ルート?」
「そうだ」
シメオンが示した先に、今までリディが経験してきた過去が、一枚の連続した絵のように映し出されていく。関わってきた人たちと過ごした日々が余すことなく通り過ぎていく。
その中には、本来あるはずだったリディの記憶、ジェイドとリディがユークレース王国の祝祭の日に、中庭で一緒に過ごしたものもあった。