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第44話 ドクター笠井の毒牙。

「ここでは、身長や体重を読み上げないことが大切よ。山田さんはもっとご飯を食べた方が良いかもしれませんね」

田辺さんが笑顔で私に伝えてくる。なんだか彼女が私を見る目に母性を感じる。


「田辺さんって、お子さんいるんですか?」

 不思議な質問を気がつけばしていた。

「いるわよ。小学校2年の男の子が1人。遅めに出来た子だから可愛くてしょうがない。中学受験の為の塾代が大変で私もパートに出てるの」

 私の時代では中学受験は小学校4年生からだったが、今は2年生から対策をするらしい。大変だろうけれど、親に可愛くてしょうがないと言われる彼は幸せだ。


「中学受験って必須なんですか?」

「この辺じゃね。変な子と一緒に学生時代を遅らせたくないじゃない」

田辺さんが何気なく言った言葉に、私は胸がキュッと締め付けられた。

(変な子って何?)


「ここって中学受験が盛んなせいか、地域の公立は将来の犯罪者候補みたいなヤンキーで溢れてるのよね。お金なんてなくて私立なんて贅沢ものなんだけど、子供の為の環境だけは整えてあげたいじゃない」

「田辺さんは良いお母さんですね」

 子供の為なら当然自分が頑張るという親がいる。親から無視し続けられた私からすれば羨ましい。


「じゃあ、次は視力を測ります。アルコールにアレルギーなどはございますか?」

「ないです」

 視力検査の機会をアルコールで浸した綿で拭くの田辺さんを見つめていた。アルコールアレルギーがあったら大変だろう。

 きっと生き辛いに違いない。私だけじゃなくてえ生き辛い人間は沢山いる。

 私の思考はいつも他の普通の人たちと一緒になろうとしていた。誰も愛せない。キスだけで吐き気をもよおす私が普通な訳がない。それでも私は普通を求め続けた。


「次は眼底と眼圧を測ります。そちらにお座りください」

 私が椅子に座ると田辺さんはカーテンを閉める。この職場は恐らく相当ブラック。9時に開いたら、私も戦力として働かなければならないくらい人材不足。その中で、田辺さんは私に仕事を教えようとしてくれている。環境の悪そうな職場でもしがみついているのは母親だからだ。


「眼圧、やや高めですね。ちょっと気をつけた方が良いかもしれません」

「緑内障のリスク⋯⋯」

「山田さんって物知りなんですね。医療系の経験はないと聞いていたけれど驚きました。普段、眼圧なんて気にしませんよね」

「そうですね」

 私が口角を上げて笑顔を作ると、次は採血に連れてかれた。


 個室に入ると険しい顔をしたベテランナース。

私は針を見て気を失いそうなくらい、クラクラした。


「採血苦手? 今日から働く人よね」

「は、はい、山田真希と申します。宜しくお願いします」

「金子佐和子です。細い針に変えるから、一度深呼吸して。貴方今にも気を失いそうよ」

「⋯⋯」

 指摘されてどうして良いか分からな苦なる。私の肌感覚は異常に敏感。感覚過敏というやつだ。

針を見るだけで恐怖で目の前が真っ暗になる。私はなんとか意識を繋ぎ止めた。


「はい、終わり!」

「えっ? いつ?」

 痛みに弱い私が採血で気を失わなかった。

「今よ。頑張ったわね。今度から、本当にキツかったら、横たわって採血したいって自分で言いなさい。恥ずかしい事じゃないの」

 私は金子さんの言葉に救われたような気持ちになった。注射が怖いなんて子供みたいで、誰にも言えなかった。


「はい、ありがとうございます。こんな上手な採血は初めてでした」

 私の言葉に金子さんは柔らかく微笑む。採血室を出ると、田辺さんが待っていた。


「山田さん、大丈夫ですか? 顔、真っ青ですよ。看護師の金子さん、大学病院の方でパワハラしまくってクリニックに飛ばされて来たんです。ここだと看護師も採血だけしてれば良いですからね。医師も大学病院の方じゃ使い辛くて飛ばされて来た方ばかりですよ」

 私の認識では金子さんは仕事に厳しい方。採血で痛くなかったのは初めてだ。手際も含めて彼女が仕事ができるのは明白。確かに私を含めた昨今の若い子にはパワハラと取られかねない威圧感はあった。使い辛くて飛ばされた医師は笠井慎太郎だろう。


「田辺さん、医師の方って⋯⋯」

「次は肺のレントゲンとバリウム検査です」

 私は気がつけば、放射線室に通されていた。


「妊娠などされてませんか?」

 若い男性の放射線技師が私に問いかける。レントゲンをする上で当たり前の質問。それなのに、私は妙に苦しくなった。

聡さんは私と結婚したいと言っていたが、子供や家族計画まで考えているのだろうか。裕司も子供は3人は欲しいみたいな話を事あることにしていたが、私は辛かった。

自分が子供を持てる未来を想像できない。



「妊娠してません。あの、バリウム検査ってあまり意味がないって聞いたんですけれど」

「よく知ってますね。結局、内視鏡検査しないと意味がないんですけれど、補助が出るのはバリウム検査なんですよ」


「では、結構です。バリウム検査はしません」

 私の言葉に放射線技師が目を丸くする。バリウム検査は検査後に下剤を飲むと聞く。便器が真っ白になるらしい。

現在私は聡さんと一緒に住んでいて、便器を真っ白にしたくはない。

性の対象として見られるのは嫌なくせに、私は聡さんに汚いところを見せるのは嫌だと感じていた。

まあ、最も下剤を飲んだ後の腹痛に痛みの弱い私が耐えられるとも思えない。



「無料より高いものはないですよ?」

「その通りです。山田さんはクレバーですね。貴方ならドクター笠井の毒牙にもかからないかも」

気になる一言を残しながら、放射線技師は私の胸のレントゲンを撮った。


「確かにバリウム検査をするには制服から検査着に着替えて貰わなきゃだし、時間もないししなくて良いかもね。今日は検査着が来ない日だし」

「検査着が来ない日?」

「検査着が来るのは週に二回。まあ、田辺さんと今日はうまくやりくりしながら、仕事を回すといいよ」


 放射線室から出ると、田辺さんが待っていた。

「田辺さん、検査着って足りてないんですか?」

「そうよ。だから、後でランドリーボックスから出してスプレーかけて畳み直してセットしなきゃね」

私は想像以上のクリニックのヤバさに言葉を失う。

他の人間が昨日来た検査着をさも、クリーニング済みのように使っているということだ。


「流石に病院でそれは衛生的に問題があると思いますよ」

「でも、ないものはないんだから仕方ないじゃない」


 私は途端に寒気がした。航空機の毛布も基本使い回しだが、赤ちゃんなど敏感肌の人間にはクリーニング済みの毛布を使う。

私の肌も非常に敏感。おそらく誰かが使って1日経った検査着を着せられていたら、肌がかぶれていたかもしれない。

インシデントが起きていないから何とか回っているが、このクリニックは非常に問題がある。


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