「そうですか。では、医師を辞めたら如何ですか? そうすれば、瀬川真澄にとって笠井慎太郎の市場価値は無くなります」
「はぁ? 何言ってるの? こっちは金払うんだから、瀬川真澄をなんとかしろよ」
「先程、私にしたセクハラ発言一つ上に報告すれば、笠井先生の首は飛ぶんじゃないんですか?」
「『別れさせ屋』、頼むんじゃなかったな。やっぱりゆすり集団か。俺みたいな社会的地位がある奴にたかって生きてるんだろ」
笠井慎太郎は言いたい放題。
まあ、マリアさんや聡さんが『別れさせ屋』をしている事情なんて想像もできるはずない。
「ゆすってません。笠井さん、お金は入りません。先生は患者に手を出したのは瀬川さんが初めてですか? 違いますよね。遅かれ早かれ自滅します。まずは、今までの事情を家族に話して、慰謝料を払い頭を下げてください」
「なんなんだ? 俺の半分も生きてない半グレみたいな仕事をしている奴が偉そうに。こっちはセックス依存症と闘いながら診察してるんだ!」
「セックス依存症⋯⋯奥さんと毎日すれば良いんじゃないんですか?」
「お前は依存症の怖さが全く分かってないな。常に込み上げる性衝動と闘い続けるんだぞ」
私も感覚過敏で常に匂いや感触を過度に感じる事に戸惑っている。彼の気持ちが分からない訳ではない。私は自分の変化に戸惑っていた。今までの私なら、目の前のクズ医者を社会的に抹殺してやろうと暗躍した。しかし、今、どんなクズでも相手を理解しようとしている自分がいる。自分でも聡さんが私に及ぼしている影響に驚いている。
「さっきのエロ動画も職場で見ていると問題になります」
「すぐ、消したのに何で分かったんだ。さては、その動体視力NASAで訓練を受けてきたか?」
「⋯⋯?」
「今のは笑うところだぞ。うちの娘なら、パパ面白すぎって爆笑する」
彼には14歳の娘がいる。多感な時期で父親が嫌いになる子も多いのに、彼は親子仲は良いようだ。
「娘さんには手を出してないですよね」
「手を出すわけないだろ。そこは生物的なストッパーが掛かってる。俺は娘が世界で一番大事だ。娘には依存症のことも知られたくないし、自慢のパパでいたい」
「娘さんが一番大事ならば、依存症のことをカミングアウトしてください」
「何言ってるんだ。そんなの軽蔑されるに決まってる」
「軽蔑されるかもしれません。だけれども、父親が性犯罪で逮捕されたら、彼女の未来が無くなります。医者でなくなっても、娘が一番と言える貴方はきっと自慢のパパです」
私は自分でも何を言っているのかと呆れた。でも、想像ができてしまったのだ。瀬川真澄が騒ぎ立てて、笠井さんが失職し逮捕され、泣いている娘さんの姿を。
「あんた、泣いてる⋯⋯」
突然、笠井慎太郎からティッシュを渡された。私も自分が泣いていることに気が付く。
ノックの音がして、扉越しに田辺さんの声が聞こえてくる。
「笠井先生、山田さん。そろそろ準備しないと」
「今、行きます」
私が引き戸を開けると、田辺さんがギョッとした顔をした。
「ちょっと、こっちおいで山田さん」
私は田辺さんにランドリーエリアまで連れて行かれる。
「もしかして、笠井ドクターに何かされた? あの人、看護師に手を出しまくって、クリニック勤務増やされたのよ」
「私は特に何もされてません」
「なら、良かった。じゃあ、検査着の畳み直しをしましょうか」
「その事ですが、検査着はクリーニング済みのものだけ使いましょう。通常の健康診断の方はお着替えなしで対応しては如何ですか?」
勤務初日の私が意見していることに田辺さんが首を傾げる。
「いや、でも、それだと金子さんに着替えさせてないって文句言われるかもしれないし⋯⋯」
「金子さんは一見怖そうに見えるけれど、仕事に真摯な方です。看護師として衛生を重んじると思いますよ」
私の言葉が納得いかないのか、田辺さんはずっと首を傾げていた。
結局、私と田辺さんは検査着が足りない件を金子さんに相談に言った。田辺さんは今まで相談もせずに、検査着をリサイクル使用していた事について金子さんに怒られた。
「怖かったわ。でも、相談して良かった。ありがとね。山田さん、若いのにちゃんとしてるんだね」
「いえ。それよりも、一通りの検査に案内してくれてありがとうございます。ご案内の仕方が分かりました」
「嘘でしょ。今までの子、みんな、初日から仕事なんて出来ないって騒いだわよ。山田さんって超有能?」
「全然です。新卒で速攻仕事辞めているしょうもない若人ですよ」
クリニックのご案内業務は単純なものだった。
受付を済ませた患者を、身体測定から順にご案内するだけだ。
今日は瀬川真澄が勤める新東京デパートの団体さんが入っていた。
その方達は皆、簡易な健康診断だけだったので検査着に着替えないことで、検査着不足問題は解決した。
「10時半から予約している。瀬川真澄です」
受付をする声が聞こえ、私は瀬川真澄の存在を確認する。
最近のアラフォーとは随分若く見える綺麗な方が増えた。
ピンク色のシャツに白のパンツスーツを着た彼女は二十代後半くらいに見えた。
格好は清楚だが、目つき一つとっても妖しく女を武器にしてきた人間特有の雰囲気がある。
「瀬川様、更衣室にご案内します」
私は瀬川様を更衣室に案内した。
「本日はお着替えなどは結構ですので、アクセサリーや指輪、時計だけ外してください」
「スマホ持って行って良い?」
「待ち時間も多いので、通話を遠慮して頂ければ持ち運びして頂いて構いません」
「やったあ」
ニヤリと笑った瀬川真澄の表情に嫌な感じを受けた。
おそらく、彼女は笠井ドクターとの会話を録音するつもりだ。
スマホのカバーもブランド物。
長い髪から外されたバレッタもハイブランド。
アクセサリーや指輪、時計、持っている鞄、ロッカーの中に掛けたトレンチコート。
ざっと合計して600万円。
中堅のデパートガールが持てるものとは思えない。
この人の目的は本当に患者に手を出すとんでもない医師の妻になる事だろうか。
私には、上手に脅してお金を笠井ドクターから引き出せるだけ引き出そうとしている可能性の方が高い。